牧師コラム

【悪い時代の悲しいクリスマス

 

 「国際家の教会ミニストリー」の元代表であったチェ・ヨンギ牧師がFBで載せた文が心に響きました。

 

 今年のクリスマスは何か悲しみによって涙が出そうで、その理由が聖誕祭はイエス様の聖誕を祝う日でありますが、イエス様が無視され拒否されているからでした。

 

 アメリカでは「Merry Christmas!」というクリスマスの挨拶がオバマ大統領時代から「Happy Holiday!」として対置されました。クリスマスツリーの展示を法律的に禁じる都市もあるそうです。悪口をいう時にはイエス・キリストの御名を使い“Christ”、若しくは“Jesus”と言います。最近のアンケート調査によると、韓国人の中で基督教に好感を感じている人は8%しかないそうです。

 

 全ての原因はキリストに従うべきクリスチャンの私たちが主の御ことばの通りに生きていないからであります。キリストに従わない偽クリスチャンが溢れている時代、とても邪悪な悲しい時代に私たちが生きているのです。

NO 194(2022年12月25日)

 

 

 

【死になさい

 

 「死ぬ前に死になさい。死んだ後からは機会がありません。」

 この言句はイギリスの小説家であり哲学者のC・S・ルイスが残した言葉として、キリスト教信仰の核心を貫く言葉でもあります。

 

 キリスト教で語る死とは色んな意味を含んでいる言葉だからです。私たちは罪によって死ななければならなかった者でしたが、キリストによって罪の呪いから解放された存在です。私たちはバプテスマを通してこの世から死んでキリストと共に蘇られたことを証します。

 

 自分が自分の人生の神になることから死んで、聖霊によってこの世から聖別され新しい人生を生きる者です。だからイエス・キリストにつく私たちは肉体の死が迫って来る前に自分の情欲と欲望を十字架につけ死なせて主が示してくださった道を歩まなければなりません。この意味を頭だけで理解している者と、奥義を悟り信仰の人生を通して徹底的に従っている者の人生は結末が大きく違うものでしょう。

NO 193(2022年12月18日)

 

 

 

【聖書を読む時には

 

 ある人が宣教師として出国する前にマタイの福音書10:9-10に記録されたイエス様の御ことばに励まされ、先代から受け継がれた土地も全財産も売り払い全部献金して宣教地へ出発しました。

 

「9. 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。

10. 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。」マタイ10:9,10

 

 御ことばを信じて、自分と家族のことは全て主に委ねて、神様が導いてくださることを固く信じた信仰の行いでした。宣教地にて沢山の経済的な苦しみがありましたが、幸いに助けが与えられ何とか様々な試練を乗り越えられました。その経験は証しとなりました。

 

 しかし、その宣教師はマタイの福音書だけでなく、イエス様が十字架の御働きを全うする直前、聖餐式でご自分の肉と血を弟子たちに分け与えた後に語られたルカの福音書22:35-38の御ことばを読むべきでした。

 

 

「35. それから、イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。

36. すると言われた。「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。

37. あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」

38. 彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。」ルカ22:35-38 (二つの聖書箇所をよくご確認ください)。

 

 私達が聖書を読む時には聖書が書かれた当時の状況と時代の背景、文脈をよく理解して聖書全体から奥儀を読まなければ神様の御教えを誤解する恐れがあります。

NO 192(2022年12月11日)

 

 

 

【批判も栄光も

 

 他人からの批判に対して怒りに燃える時があります。人によってはそれが外に現れる人も、心の奥に秘かに隠してしまう人もいますがどちらも傷を受けます。私たちが人の批判に対して怒りを覚える理由はその批判を自分が認めるからです。反対に人からの批判を心から認めなければ人からの批判に対して傷つくことはありません。また自分に対して詳しく知らない人からの批判は何の価値もないもので心を痛める必要もありません。その人は私に対してたった一分も考えてない人だからです。

 

 使徒パウロはユダヤ社会から認められる地位を得た者であるがキリストを信じてからは自分が得たものはちりあくたであると告白して(ピリピ人3:8b-9a)全てを捨てました。キリストを信じることによる義の素晴らしい価値を悟ったからでした。

 

 人からの批判もこの世の栄光も、神様の子として選ばれた尊い身分である私たちにとっては無価値なものです。

NO 191(2022年12月4日)

 

 

 

【高齢者の教会だから

 

 先週、埼玉県川越市のA教会に行って来ました。教会の体制を家の教会にしたいけど、なかなか出来なく何年間も悩んでいたC牧師の依頼で家の教会のことを伝える為に溝本朋子牧者と共に訪問して、館山教会の働きを証ししました。

 

 私たちも家の教会になってから4年も満たないまだまだ課題が多い教会なのに家の教会の証しを伝える資格があるだろうかとも思いましたが、主による導きだと信じて館山教会の状況をありのまま伝えました。館山教会が高齢者の教会である為に、90歳、86歳、79歳、63歳の信徒が牧者として働いていることを伝えました。

 

 “90歳の牧者が現役で働いているならば、私たちの教会も出来るぞ”

 

 そうです。それが館山教会の力です。

 勿論私たちの教会が高齢者の教会のままに留まってはなりませんが高齢者であるから何も出来ないことでもないのです。世界で90歳の牧者が働く教会は恐らく館山教会しかないでしょう。弱いからこそ諦めない限り励ます教会となるのです。

NO 190(2022年11月27日)

 

 

 

【特別

 

 韓国の創造科学会が主催する創造科学講座を今年の3月から受けていて今月には専門家過程の「地球と宇宙」を受講しています。様々な専門の大学教授や研究者の講師による専門的な講義はとても有益で目から鱗が落ちる学びです。特に地球と宇宙の学びを通しては私たちが住んでいる地球がどれ程、特別な星なのか、私たちを造られた神様がどれ程、広大なお方であるのかを悟ります。

 

 1977年打ち上げられ45年間も時速6万km(飛行機の100倍のスピード)で飛行しているNASAの無人宇宙探査機ボイジャーは太陽から約140億km離れたところを飛んでいます。ボイジャーが今のスピードで飛び続けても最も近い太陽系外惑星プロキシマ・ケンタウリbまで着くためには7万年も掛かるそうです。

 

 宇宙には数千億個の恒星が集まる銀河が数千億個存在すると知られています。気が遠くなる程、遥かな宇宙を創造し広げた神様が私たちを造られた全能主であります。

NO 189(2022年11月20日)

 

 

 

【罪の癖

 

 ある牧師の告白が心に響きました。

 “自分の人生を振り返って見ると、誰からも教えて貰ってもないのに本能的に人に会うと、「自分に益となる人なのか、自分に損を与える人なのか」を数分の内に計算する癖があることに気付いた”との告白でした。

 

 永遠のいのちを与える救い主イエス・キリストに従う人生を目指して生きていて、良い知らせの福音を伝えながら人々に仕える人生を生きていてもその様な罪の癖が私たちにあることを隠すことは出来ないでしょう。

 

 私たちは子どもの様に素直になることが出来るでしょうか。

 

 損得を数えないで私たちを創造なさった神様を信じつつ、私の罪の為に十字架の上で死なれたイエス様のように生きたいのですが現実の私たちは自分の弱さと罪深さに躓いてしまいます。だからこそ私たちは徹底的に罪と戦い、自分の救いの完成の為に緻密に努力しなければなりません。何故ならば、私たちには天国に行く希望があるからです。

NO 188(2022年11月13日)

 

 

 

【偽り

 

 人間は人生を生きながら知らずの内に嘘をつくことがあります。聖書は嘘をつくことに対して厳しく警告しています。何故ならば神様は真理の御霊であり、偽りはサタンからくるものだからです。黙示録21:8では偽りを言う者は滅んでしまうことを警告しています。だから何気なく語る言葉も真実を語る様に気を付けなければなりません。

 

 哲学博士であり、10か国の言葉が話せる自閉症を患っているジョセフ・ショバネクは自閉人から見る世界に対してエッセイ集『我々はみんな別の世界に住んでいる』で自閉症の人は「嘘をつくことが出来ない」と語っています。

 

 旧約聖書では罪がきよめられる為に捧げる生贄の「罪のきよめのささげ物」と「代償のささげ物」は気付かずに罪を犯した時にささげ赦される祭祀であり、進んで罪を犯した時には許されないことを厳しく語っています。そして、その原理はイエス・キリストによって救われた新約時代に生きている我々にも変わらない戒めであります。自閉症の人を自閉と呼んでいますが、本当に自ら罪の中に閉じ込めているのはどちらでしょうか。

NO 187(2022年11月6日)

 

 

 

【チャレンジ

 

 自分を含め、私たちが聖書の御ことばを説教、水曜祈り会の学び等を通して沢山聞いているにも関わらず私たちの生活、人生が変わらない理由は御ことばの黙想と実践が伴わないからかも知れません。

 

 家の教会で人が変わる理由は「道のコース」の学び、「牧場の集い」からの感動を「共同礼拝」の中で再献身するからです。だから私たちも本日の礼拝から「チャレンジの時」を持ちたいと思います。「再献身の時間」にチャレンジがあり、悔い改めがあり、癒しが伴う霊感溢れる礼拝になる様に皆さんも祈りを持って積極的に参加しましょう。その為に説教後1分30秒の「沈黙の祈りの時間」を持ちます。そして、私たち皆が説教を通して与えられた神様の御ことばを真剣に受け入れ、それに応える時を持ちたいと願います。

 

 「再献身の時間」を聖霊様が満たしてくださいます様に、神様による心のタッチがあります様に、また聖徒の皆様が主の召しに答えて反応をします様にお祈りします。

NO 186(2022年10月30日)

 

 

 

【憂鬱と不安

 

 精神的な苦しみによって相談する人々の90%以上が「憂鬱」と「不安」の症状によるものだそうです。自分が感じている「憂鬱」と「不安」の原因を正しく弁えることが出来なければ癒すことが出来ません。「憂鬱」と「不安」は同じく喪失感によって来るものとして、喪失の対象は離別、死、職場、健康、お金、地位等です。

 

 「過去」に大事な何かを喪失したことによって「憂鬱」になり、「未来」に大事な何かを喪失しそうで心配して「不安」になります。「憂鬱」は現在の不満足と不幸の原因が過去にあることによって、「不安」は未来に対する否定的かつ不確実性によって生じます。どちらも現在に満足出来ず、不幸を感じています。

 

 しかし、クリスチャンは過去の不幸と苦しみは罪の贖いの為に与えられた神様の信仰訓練であることを悟り「憂鬱」を克服し、私の罪の為に十字架の上で死んでくださったイエス・キリストへの信仰によって、与えられた救いの喜びと天国を期待し「不安」を克服して生きるから全てを乗り越える力があります。ハレルヤ!

NO 185(2022年10月23日)

 

 

 

【休み

 

 先週の主日礼拝を午前は市原平安教会、午後は純福音市原教会で説教の奉仕をして、その働きが終わってから夜には知り合いの先生と二人で藤原牧者の駐車場を借りて1泊のキャンプをしました。

 

 館山に来てから初めてのキャンプとして、月曜日が祝日でハングル教室が休みだったから実行出来たことでした。キャンプは1年前からずっと考えていたこととして、生憎、雨の日であったにも関わらず実行しなければなりませんでした。その理由は一か月くらいの前から原因も分からず、自分の心の底から不満の思いが沸き上がってしまったからでした。

 

 何故、理由もなく不満の思いで耐えられなかったのかと、その原因をじっくり考えてみると、最近何年間も休みらしい休みがなく霊肉共に疲れていて、特に「情緒が疲れていた」ことに気付きました。

 

 悪魔は私たちの弱いすき間を常に狙っています。一泊という短いキャンプであった為に体はより疲れてしまいましたが、情緒は少し回復された気がしました。皆様も自分の霊肉魂を聖霊充満に管理しましょう。

NO 184(2022年10月16日)

 

 

 

【節期

 

 私たちが共に見ている新改訳聖書2017年版では「例祭」と訳しているモエード(moed)の「節期(日本では使わない言葉ですが『ある目的の為に定めた節の期間(約束の時間、決まった時)』を意味する聖書が語る例祭を最も相応しく表す表現である為、用います)」若しくは「節気」に対して考えてみたいと思います。

 

 イスラエルは7つの節期(過ぎ越しの祭り、種無しパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭り(五旬節・刈り入れの祭り)、ラッパを吹きならす祭り、宥めの日、仮庵の祭り(収穫祭))があります。レビ記23:2では「主(ヤッフェ)の例祭」、「わたしの例祭」と語っていて、地上では永遠に守る例祭として定めています。何故ならば、この7つの節期は全てイエス・キリストの働きを予表しているからです。キリストの誕生と十字架の死、そして復活と再臨、聖霊の降臨を予め表すしるしであり、神様による契約を示すものです。だから「節期」はユダヤ人だけでなく、クリスチャンこそ必ず憶えておかなければならない大事な奥儀であります。

NO 183(2022年10月9日)

 

 

 

【Weracle

 

 最近韓国で朴ウィというクリスチャン青年が書いたエッセイ集Weracleが出版され人々に感動を与えています。WeracleとはWeとMiracleを合成した造語で「私たち皆に奇跡を」という意味のタイトルです。

 

 彼は事故によって全身麻痺になります。その後、彼は顔も知らない教会の人々が祈って下さり、助けてくださることを経験します。クリスチャンであっても自分しか知らなかった彼は事故によって、他人の苦しみに気が付き、絶望の中にいる人の為に懸命に執り成し祈ることによって神様に人格的に遭います。そして下半身麻痺まで回復される奇跡を体験します。苦難を通して生きておられる救い主イエス・キリストの福音を知り、苦難の中で苦しんでいる人々に希望を伝える働きを始めます。いつも笑顔の朴さんは「自分の事故は事故ではなく事件であった」と告白しながら神様によって与えられた新たな人生を楽しんでいます。

NO 182(2022年10月2日)

 

 

 

【聖書通読

 

 皆さんは聖書を通読していますか。

 「聖書通読の学び会」を通して聖書通読をした方々もいると思いますが、途中で諦めた方もいるでしょう。また聖書を読もうともしない方もいるかも知れません。

 

 私たちの信仰はただで与えられるものではありません。

 この世を創造し、私たちを造られた創造主の神様を知る方法は主がくださった聖書を読み学ぶことです。聖書は神様が人類に与えてくださった特別な恩寵(プレゼント)であり、私たちが何者であるのかを教え、どの様に生きるべきであるのか、そして人間は何処に向かって行くのかを教える本として、人生のマニュアル本です。

 

 聖書を読む方法は

 ①理解出来なくても速読すること

 ②毎日こつこつと、出来れば沢山読むこと

 ③自分の歳くらい読むことを目標に先ずは10読を目指すことです。

 

 聖書の著者は聖霊様だから、主に祈りつつ聖霊様の御恵みと導きを期待しつつ通読すると、きっと新世界が開かれることを体験するでしょう。

NO 181(2022年9月25日)

 

 

 

【Abide with me

 

 死が近づいてきて鼻から息が途絶えようとする直前、皆さんはどの様なお言葉を残しますか。

 

 人種も宗教も越えて世界で愛されているイギリスの讃美歌があります。

 1912年タイタニックが沈没する時に、

 2009年航空機事故が有ったオランダの空港にて、

 毎年ヨーロッパFAカップ決勝戦が行われるグラウンドにて、

 2012年ロンドンオリンピック開幕式で歌われた讃美歌です。その曲は讃美歌なのにヒンドゥー教のインドの祝日にも毎年演奏されています。マハトマ・ガンディーが愛した讃美歌だったからです。

 

 その讃美歌が「日暮れて四方はくらく」です。死を目前にしている人の歌と言われる厳かで厳粛で省みさせる曲です。この讃美歌の歌詞は死を目前にしている司祭が新約聖書の使徒パウルの手紙を軽く受け止めて生きた自分の人生を後悔する思いて、後輩の前で何度も繰り返して残した「Abide with me! (主よ)私の傍にいてください。」の独り言によって作られた讃美歌です。讃美歌の歌詞は次の通りです(李京奭訳)。

 

 主よ、

 私の傍にいてください。

 黄昏(たそがれ)が早くも沈みます。

 

 暗闇が深まるので

 主よ、

 私の傍にいてください。

 

 (私を)助けていた人々は(皆)消えて行きました。

 (私を)慰めていた者たちは(皆)通り過ぎました。

 

 弱い者を

 助けてくださる主よ、

 私の傍にいてください。

 

 刹那(せつな)の人生

 引潮のように消え

 終わりが近づいています。

 

 この世の楽しみも

 ほの暗くなり

 その栄光も 

 消えています。

 

 (人生の)全てを振り返ると、

 変わり行き、衰えて行っています。

 

 お、主よ、

 (永遠に)変わらないお方、

 私の傍にいてください。

 【本日のコラムは金ハクチョル師の文を纏めたものです。】

NO 180(2022年9月18日)

 

 

 

【悔い改めること

 

 私たちは罪深い者が神様に悔い改めると思いがちですが、悔い改めは罪人がすることでは無く、自分がどれ程罪深い者であるのかを自覚した者、つまり恵まれた者がするものです。

 

 神様の愛を知り、キリストによる贖いがどれ程、素晴らしいものであるのかを解かる者が主の前で悔い改めることが出来ます。自己罪意識が低くて、私は良い人であると思う程、神様の前で悔い改めることは出来ない罪深い者です。

 

 常に祈り、聖書を毎日読んで敬虔に生きている様な人であっても神様の前で悔い改めることが出来なければその人は人格的にイエス・キリストを受け入れた真のキリスト者になることは出来ません。そういう人は神様による平安も、完全な自由も味わうことが出来ません。

 

 真のキリスト者は小さな過ちにも敏感に反応し、神様の御前で恐れ慄きながら慎みます。キリストの身体である教会のリバイバルと主の奇跡はその悔い改めによって始まります。

NO 179(2022年9月11日)

 

 

 

【天国にて報いの基準とは

 

 牧場の集いが再開しました。

 牧場は私たちが品性を磨く為のとても良い実践現場です。

 

 イエス様が「御国で最も偉い者は人に仕える最も小さな者である」と語られました。私たちはこの主の教えに”なるほど、流石に天国とは”と思い、誰もが納得はするけれど、その御ことばに隠されている意味に対して深く考えることはしません。イエス様が語られたその御ことばに隠されている意味は「天国では偉い者と偉くない者、身分が高い者と低い者、富んでいる者と乏しい者の差がある」ということです。

 

 主の為に全てを掛けて一生を犠牲して生きた者と、自分勝手に生きてやっと救われた者が同じ報いを頂くこと自体が不公平なことであります。神様は公平なるお方です。そうであれば、主イエス・キリストを神様として、救い主として信じて救われた私たちがどの様に生きるべきであるのかは明確です。この世の価値観、つまり虚しくて永遠ではないものを求める人生ではなく、天国の価値観、神様によって認められる永遠に輝くものを求めて生きることです。

 

 その(報いの)規準に対して聖書と基督教教理では様々な違う言葉で表現しています。例えば「小さな者になること」、「満ち満ちたキリストの身丈にまで成長すること」、「霊的な品性を磨くこと」、「聖化すること」、「共に生きること」、「聖霊の実を実ること」、そして「神様の愛によって互い愛し合うこと」です。つまり纏めると、天国にて報われる規準となるのはイエス・キリストであり、主と比べ測られ、主に一番近い順でその偉い順が決まることです。

NO 178(2022年9月4日)

 

 

 

【結構進んでいる教会の問題

 

 ヨーロッパの教会の礼拝堂は歴史的なゴシック建築として美しさを自慢しています。古い礼拝堂はヨーロッパの誇りでもあり、大げさに言うと、築500年未満の礼拝堂は古い礼拝堂として名を上げることさえ出来ない程です。

 

 しかし、最近古い礼拝堂は維持するのに補修費が掛かり過ぎるし、取り壊すことも儘ならない、そしてそのまま放置すると都市の美観を損なう建物となっていて、キリスト教団は古い礼拝堂が重荷になっているそうです。

 

 その全ての原因は信徒数が減ったことによる問題です。2,30人の高齢者だけが集い若者は礼拝に来なくなった教会が増え続けています。USA TODAYは「ヨーロッパの教会が死んでいく。もうヨーロッパをキリスト国家と言い難い。」と語っています。

 

 グーグルでちょっとだけ検索してみても沢山の古い礼拝堂が売り物として出されていることが分かります。売却された礼拝堂はナイトクラブやイスラム寺院などに変わりました。こういう現状はただヨーロッパだけの問題として見ることが出来ません。人の事ではなく終末の徴として診る必要があります。

NO 177(2022年8月28日)

 

 

 

【神様の奇しい導き

 

 神様のなさることは私たちの思いとは違います。私たちの熱心、計画、望みを遥かに超える奇しい導きです。

 

 今年の家の教会「牧者カンファレンス」は3年ぶりに対面集会として開かれました。日本家の教会ミニストリーが正式に発足されてからのカンファレンスであった為にその意味は深いものでした。

 

 コロナによって家の教会ミニストリーは委縮され、働きも影響を受けていた為に参加者の期待は膨らんでいました。しかし、残念ながら集会の中でコロナの感染があり、館山教会も感染者が出てしまいました。

 

 私たちは“何故?”という疑問に包まれました。これからが私たちが恵まれ、用いられる出番だと思って期待していたからでした。しかし、「神様は正しい。主は良い方である。全てを益として変えてくださる。」という信仰が与えられました。そして自分の熱心ではなく、ただ主に委ねる思いに満たされました。そして、その信仰が私たちに新しい力を与えてくださるはずです。

NO 176(2022年8月21日)

 

 

 

【あなたは神様を自慢していますか?

 

 あるクリスチャンの青年A君に未信者の古い友のB君が質問しました。

 “お前が信じている神は良い方なの?” 

 

 A君が言いました。

 “当たり前さ、俺が信じていること見れば分るだろう。”

 

 B君は言いました。

 “違う。お前が信じている神は絶対良い神ではない!”

 

 A君は自分が信じている神様に対して悪く言われ苛立ちを覚えました。その時、B君が続けて言いました。

 “お前が信じる神が本当に良い方であれば、お前が私に自慢しなかったはずがない!”

 

 その話を聞いたA君は大きな衝撃を受けて、慌てて

 “それはお前が興味を示さなかったから私が伝えなかっただけだ。”とA君が言い訳を言いました。

 

 その話を聞いたB君は言いました。

 “違うよ。愛するものはいくら悪く言われても自慢し続けるものだ!”

 

 A君は心の中で涙が出ました。

 自分が周りから変に思われることが嫌で福音を伝えなかったことに気付きました。

 

 人は自分が夢中になっていること、自分が本当に愛していることを他人に隠しきれることが出来ません。自分の心の中に満たされていることが外に染み出て現れるものです。キリストによって救われた喜びで満たされていればそれは必ず外に現れるものです。皆さんは神様を自慢していますか。

NO 175(2022年8月14日)

 

 

 

【4本柱④:キリストの仕えるリーダーシップ

 

 4本柱の最後の柱は「キリストの仕えるリーダーシップ」です。主が示してくださった仕えるリーダーシップとは、仕える立場で求めるリーダーシップではなく、仕えられる立場、つまり霊的な未熟で、御ことばを知らなく、神様の御旨を知らない人の必要を満たしてあげるリーダーシップを言います。その基本概念は成熟した者が未熟の者に仕える姿勢です。その根拠となる御ことばがマタイ20:27-28です。

 

「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」マタイ20:27-28

 

 この世の者たちが求めるのは人々の先頭に立ち、人々から仕えられる者になることです。人々はその様な人を英雄化し、その様な人生を称え求めます。人々はその様に生きる為にどんなことも恐れずに行います。だからこの世は人々の争いが絶えません。人類の歴史は戦争が絶えない歴史でした。しかし、キリストによって救われた私たちは主に倣いこの世に小さな天国を造り上げ神の国を造ることが出来ます。

NO 174(2022年8月7日)

 

 

 

【4本柱③:聖書的な働き分担

 

 4本柱の三つ目は「聖書的な働き分担」であります。そして、その根拠となる御ことばはエペソ4:11-12です。

 

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。エペソ4:11-12

 

 この御ことばの中で牧師と訳されたギリシャ語は「ポイメン」という単語で、その意味は牧者です。現代の会堂教会では牧者の言葉を使わない為に牧師と訳されたと考えられます。聖書的な教会を目指している家の教会は牧者があり、牧者の役割は単に牧場を導く者ではなく、小さな教会である牧場を牧会する者であります。

 

 牧師、伝道師、牧者、執事、役員等々の職責はそれぞれが現代の教会でキリストが頭となる教会の器官としての使命を全うする為に与えられたものとしてその重要性は同じです。牧師は聖徒が献身するように導き、励まし、支えつつキリストのからだを建て上げさせます。聖徒は牧師と協力しつつ共に神の国を拡張する働きに務めることが大事です。教会で主(おも)に働くべき者は牧師ではなく、聖徒であるからです。

NO 173(2022年7月31日)

 

 

 

【4本柱②:聖書的な弟子訓練の方法

 

 次は4本柱の二つ目の「聖書的な弟子訓練の方法」に関して考えてみましょう。その根拠となる御ことばがマルコ3:14-15です。

 

「イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」

 

 主が弟子たちを選んで最初に彼らを使徒と呼ばれたのは、まだ資格もない漁師などに過ぎなかった彼らにプライドと共に新しい使命と繋がるアイデンティティーを付与したことです。そして弟子たちを主の傍に置いて暗闇の勢力下にいる人々を救う為の力を与えてそれに相応しい宣教と癒しと悪霊を追い出す働きをさせ、主イエス・キリストによって与えられる新世界を前もって実現なさいました。

 

 主は弟子たちに主の全てを見せてくださったのです。それが主が示す弟子訓練であり全人格を通して教える主の道であります。私たちが主の弟子として生きている理由もこの世に主による天国が既に実現していることをこの世に証しする為です。

NO 172(2022年7月24日)

 

 

 

【4本柱①:教会の存在目的

 

 続けて「家の教会」のソフトウェアとなる4本柱の一つである「教会の存在目的」から共に考えてみましょう。根拠となる御ことばはマタイ28:19-20です。

 

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28:19-20

 

 天においても地においても全ての権威を持っている主イエス・キリストが昇天なさる時に弟子たちに託した命令として有名な地上大命令が語られた御ことばです。

 

 赤ちゃんが生まれて構成員に加わらなければ家庭も社会も国家も成り立ちません。それと同じように教会も新しい魂の救いが起こされ、キリストの弟子となる者が次々と立てられなければなりません。それがこの世において主による贖いが施される為の教会の存在目的であります。だから宣教と伝道はキリストが頭となる教会が成り立つ為に行う必修かつ当然な働きであります。

 

 現実がいくら大変で、状況がいくら悪くても魂救いと弟子作りは教会が諦められない尊い働きであり主の再臨の日まで続く使命であります。主の再臨によって与えられる新天新地の時まで続く働きであります。

NO 171(2022年7月17日)

 

 

 

【3軸(意):連合礼拝

 

 3軸の「意」に当たる「連合礼拝」に対して語ります。

 家の教会は教会の基本を「牧場」として定めています。牧者は牧場という小さな教会で牧師の様な役割を果たして牧員の方々を励まし助けます。それが聖書によって示す初代教会の姿であり、聖書的な教会の集いです。そして個々の教会の「牧場」が主日に集まり礼拝を捧げることを私たちは「連合礼拝」と言います。

 

 私たちは礼拝の中で語られる神様の御ことばを頂き、主の前で決断しなければなりません。礼拝は主によって与えられる御ことばに対して自分の意志を持って反応する時です。イエス・キリストの満ち満ちた身丈にまで成長する為に個々人が御ことばによって励まされ、御ことばに反応する決断が伴う意志表明が必ず必要です。

 

 「知」、「情」、「意」が「道コースの学び」、「牧場の集い」、「連合礼拝」によってバランスよく成長することが家の教会の望ましい姿であります。

NO 170(2022年7月10日)

 

 

 

【3軸(情):牧場の集い

 

 次は3軸の「情」に当たる「牧場の集い」に関して語ります。

 自然に成長する教会の中でスモールグループの集いがない教会はない程、スモールグループは重要ですが他のスモールグループと牧場の集いは性格上、大きな違いがあります。それは御ことばの学びがないことです。

 

 御ことばの学びがないことはスモールグループに関してよく知っている人であれば、びっくりする程のことかも知れません。しかし、牧場の集いは御ことばの分かち合いがありません。何故ならば、牧場の目的の一つがVIP(未信者)を招いて導くためであるからです。

 

 聖書の価値をまだ知らない人にとって聖書の学びの集いは退屈なだけの二度と参加したくない面白くない集いに過ぎません。魂救いが目的であれば魂が来易い雰囲気を作ることが大事です。牧員の皆が愛を分かち合い励まし合い祈り合う集い、初めて参加する方も心が和む集いを作ることが牧場の役割です。VIPは私たちを投影して神様とイエス様を見るからです。

NO 169(2022年7月3日)

 

 

 

【3軸(知):道コースの学び

 

 先週は家の教会の3軸と4本柱を確認しました。今日は3軸の中で正しい回心と霊的な成長に大きな影響を与える「知」に関して考えてみたいと思います。

 

 人の人格を形成する大事な要素が「知」、「情」、「意」であります。そして家の教会の3軸の中で「知」に当たるのが「道コースの学び」であります。人が成熟した人格を持つためには正しい価値観、正しい思考を持つことが最も大事なことである様に「道コースの学び」は私たちの信仰成長に不可欠なものです。

 

 この世の多くの者が聖書を知らないで、神様の知識がないことによって、人生の本当の意味を知らずに生きているのです。全能者のご計画によってこの世と人間が創られたことを知ることが人生を生きる知識の一歩です。私たちが正しく生きる為に私たちを創ってくださった創造主の神様を知る為に努めましょう。ホセア6:3の訴えが心に染みる勧めではありませんか。

 

 「3.私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」ホセア6:3

NO 168(2022年6月26日)

 

 

 

【家の教会の精神

 

 「家の教会の精神」は3軸4本柱として纏められます。

 人の人格が「知」・「情」・「意」の均等な成長によって成熟する様に、家の教会も3軸と呼ばれる「道コースの学び」(知)、「牧場の集い」(情)、「主日連合礼拝」(意)によって聖書的な教会として健康に成長されます。

 

 3軸がハードウェアであれば、4本柱はソフトウェアとして、「教会の存在目的」、「聖書的な弟子訓練の方法」、「聖書的な働き分担」、「キリストの仕えるリーダーシップ」という四つのスピリットによって教会を支えています。

 

 「教会の存在目的(マタイ28:19-20)」とは魂を救い、弟子とするイエス様の大命令を覚えて、「聖書的な弟子訓練の方法(マルコ3:14-15)」とはイエス・キリストが教えてくださった現場にて学び実践することであり、「聖書的な働き分担(エペソ4:11-12)」は初代教会に与えられた働きを牧師と信徒が共に担ったことを覚え、牧師が祈りと御ことばに励み、信徒を訓練させ、共に教会を支えることです。そして「キリストの仕えるリーダーシップ(マタイ20:27-28)」は正に主が示してくださったリーダーシップとして、自分の必要より、神様の必要と兄姉の必要を先に満たそうとするサーバントリーダーシップによって主が求められる初代教会の姿を再現することを目標としています。3軸4本柱を確かめることこそが聖書的な教会の姿である「家の教会」への新しい原点回帰でしょう。

NO 167(2022年6月19日)

 

 

 

【主を知ろう

 

 私たちが中国語を二十年間学んだと考えると、どれ程中国語をぺらぺら喋れるでしょうか。または何かを二、三十年間学ぶとその分野のプロ若しくは博士程の知識を持つベテランになることは間違いないはずです。その様に考えると、一生又は何十年間教会に通っている私たちは神様に対して、聖書の御ことばに対しては結構詳しく知っていなければなりません。

 

 皆さんは如何でしょうか。

 

 私たちは神様に対して、聖書に対してどれ程の知識を持っていますか。ホセア預言者は6章3節で「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」と促しました。正しい信仰は主を正しく知ることから来るものです。神様に対して不平を言ったり、自分の人生に対して不満を抱いている多くの原因は主の御ことばを知らないから誤解してしまった結果によるものです。神様は私たちの人生を豊かにしてくださるお方です。主を知る為に積極的に努めましょう。主を切に追い求めましょう。

NO 166(2022年6月12日)

 

 

 

【共感

 

 ある言葉は妄りに使えば使う程、意味が薄れてしまい結局その言葉本位の意味を失ってしまいます。「愛」という言葉がそれであり、又同じように使うクリシェ(*)の一つが「共感」という言葉かも知れません。

 (*)クリシェ(フランス語: cliché)は、乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句、決まり文句)・表現・概念を指す。

 

 共感とは「誰かが語る時、その話しに割り込まないでひたすらに頷いて肯定してあげる事、又はよく聞いてあげること」として考えがちですが実はそうではありません。共感は相手より自分の感情が刺激され自分を理解することが先にならなければなりません。だから自分を知ることが苦手な方は他人に共感することが難しいです。自分を愛することが出来ない人は他人を愛することが出来ないことと同じ様なことです。

 

 相手に共感することは自分の存在を認めることによって相手の存在を認めることです。そして先天的の情緒的共感力よりも後天的の認知的共感力が最も大切である為に、相手に対する共感力は私たちの努力によって深まるものです。親子の間、夫婦の間、親友の間、私たちは人間関係によって生きる者として相手との共感力を高めることによって人生がより豊かになります。

NO 165(2022年6月5日)

 

 

 

【牧師の説教と主の御業

 

 牧師の説教ほどコスパ(*)が低いものはありません。

 (*)コストパフォーマンス(cost performance)の略語。支払った費用(コスト)と、それにより得られた成果(パフォーマンス)を比較したもの。

 

 数千年前から神様が特別に選んだ人々を通して与えた聖書の御ことばを牧師は神学校で学び、人生を通して経験し、長い年月を掛けて悟られた御ことばの奥義を講壇で語ります。'どうすれば信徒の方々が聴いて理解し御ことばに従えるか'、'どうすれば分かり安く伝えられるのか'、'この解き明かしは正しいのか'と牧師は悩んだ末に講壇で取り継ぎます。その説教を信徒の方々が聴いて心を打たれ変わってくれることに牧師は期待を膨らませます。

 

 一人だけでも悔い改めて神様の御前で変わってくれればと願います。しかし、礼拝に語られた一度、二度の説教で信徒が変わったりすることは稀のことです。

 まるでエゼキエル書33:31-33の様です。

 

 「31 彼らは群れをなしてあなたのもとにやって来る。そして、わたしの民はあなたの前に座り、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは口で甘いことばを語り、心で利得を追っている。

32 あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌う恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。

33 しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間に一人の預言者がいたことを知る。」

 

 牧師が説教に懸けた望みは無惨に崩れます。毎週牧師は落胆します。

 

 しかし、不思議な事は時間が経って気付くと、いつの間にか信徒は成長しています。神様の驚く御業でしか言えません。その恵みによって牧師は説教を続けているのです。

NO 164(2022年5月29日)

 

 

 

【永遠に消えない尊いご奉仕

 

 先週の金曜日に教会の十字架LEDライティング工事をして頂きました。その工事はEZER(「助ける」のヘブライ語)という名を挙げて日本の教会をサポートする基督教ボランティア活動によるもので、暗闇の中にある日本中の教会の十字架を希望の光で輝かせたいという願望による働きでした。

 

 この日に来てくださった兄弟は日本人2名、韓国人2名で、この奉仕に携わっている方々は皆が信徒であり、自分の才能やお金、そして時間を使ってただ小さな教会の力になりたいという願いによって献身しています。

 

 その働きの為に会社を辞めてフルタイムで献身している執事もいれば、この働きの為に職業を変えたり、休みを取って参加される兄弟もいました。皆が「日本の教会を助けたい!」という熱い思いによってこの様に尊い働きに専念しています。彼らはこの世に於いて何かの代価を貰うことを望まず、この世に神様の御国を建設しようとする尊い使命の働きに全てを掛けていました。その証しを聞いて心が熱くなり深い感動を受けました。

NO 163(2022年5月22日)

 

 

 

【聖霊の御働き

 

 “聖霊の働きはもう終わった”と言う人がいます。そのように考える人には聖霊様は働きません。だからその人にとっては聖霊の働きはないからその話が正しいかも知れません。しかし、変らず聖霊の働きを信じる者には聖霊の働きは続いているし、神様による奇跡も相変わらず起きています。イエス様が語られたように主を信じる者は、主が行った業を行い、さらに大きな業を行うことができます(ヨハネ14:12)。

 

 主による御ことばの約束とその力は今も有効です。その約束を信じることが信仰です。同じクリスチャンでも、祈りの答えと奇跡を日々味わう者がいれば、そういう経験が全くない者もいます。その差は御ことばを素直に信じるかどうかに関わっています。“希望がない”と、言わないでください。私の中に光があれば全ての人が否定しても希望があり、その希望を用いて聖霊様が働いてくださるのです。

 

 ”皆さんの中に光がありますか?”

NO 162(2022年5月15日)

 

 

 

【天国

 

 “嫌なあの人が行く天国であれば私は絶対行きたくない!”と語る人がいます。人間関係によって傷つけられた人が感じる思いでしょう。充分に理解出来ます。この世には本当に邪悪な人がいます。当事者でなければ分からず感じられない悔しくて忌々しい思いによって多くの方々が苦しみ傷つけられています。だからその様な心は理解出来ます。しかし、実はその様に思うことは私たちが天国に対する理解不足によるものであります。

 

 例えば、学校で演劇の中で私に酷く当たった演技をした友を演劇が終わった後でも憎む者は誰もいません。迫害が酷ければ酷い程、私の演技も輝くはずです。この世の中で私に恥をかかせ、痛みと苦しみを与えた人が後にイエス・キリストを信じて救われ天国にて再会したとしても全ての傷と恨みが忘れられる程の喜びと栄光と幸せが満ちている所が天国であります。天国は私の命を奪った敵でさえ会っても懐かしくて嬉しがる所に違いありません。

 

 キリストによって救われた我々が行く御国はそういう所であり、イエス・キリストによって与えられる我々の救いとはそういうものです。

NO 161(2022年5月8日)

 

 

 

【苦難の意味

 

 クリスチャン学生たちがインドへ短期宣教旅行に行った時の話しです。引率した牧師が恵まれて、集会に参加した現地の人々に “病を持っている人は前まで出てください!”と言いました。後ろから末期の肝臓癌を罹っている人が担架に運ばれて出て来ました。癒しの為に皆が熱心に祈りました。そして、翌日その人の癌が癒されたという連絡がありました。宣教チームの皆はとても驚き喜びましたが、一人の青年だけが暗い顔をしていました。実は彼の父が同じ癌によって昨年亡くなったからでした。

 

 “あの方は一度の祈りで癒されたのに、私の父は癒しの為に全家族が長い間を熱く切実に祈ったけど何故、癒してくださらなかったのですか?”

 

 青年は神様に対して納得できず躓いてしまいました。その時、青年に神様の御声が聞こえてきました。

 

 “わが子よ。父を失ったお前が父を失っているインドのあの人々を慰めて挙げなさい!”

 

 青年は大泣きしました。そして、癒され悟りました。自分の悲しみと弱さを通して主が働いてくださる恵みを。

NO 160(2022年5月1日)

 

 

 

【進化論による洗脳

 

 アメリカで2009年出版された基督教書籍『Already gone:既に離れた』では2万名の20代の青年たちを対象とするアンケート調査で、中学校までは定期的に教会に通っていたけれど、今は教会から離れた606名の答えを載せました。

 

【質問】いつ教会の出席を辞めたのか。

【結果】中学生の時40%、高校生の時44%、大学在学中11%

 

【質問】聖書に対して不信を持つようになった時は?

【結果】中学生の時40%、高校生の時44%、大学初期11%

 

 これは学生時代の進化論教育による結果であることを表しています。学生の中で科学教科書が間違っていると思う学生は殆どいません。しかし、教科書では仮説、信念、信仰、宗教である進化論を科学の名を借りて、まるで真実のように教えています。その結果、学生たちは考えずに無神論的な思想に洗脳されてしまいました。それがこの時代の大きな不幸であり恐ろしいことでもあります。

NO 159(2022年4月24日)

 

 

 

【聖金曜日?聖水曜日!

 

 「その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折って取り降ろしてほしいとピラトに願い出た。」ヨハネ19章31節

 

 考えないと悟りは得られません。

 聖書が優先されるのか長老の言い伝えが優先されるのか、言うまでもなく聖書です。人類は二千年間をイエス・キリストが十字架に付けられた日として聖金曜日を守って来ました。

 

 しかし、ヨハネ19:31の「その日は備え日であり、翌日の安息日は大いなる日」の記録よって、イエス様が十字架につけられた日が定期安息日の備え日である金曜日ではなく、過ぎ越し祭りの安息日の備え日の水曜日であることを知らせています。

 

 イエス様は過ぎ越し祭りの子羊を屠る日である備え日に十字架につけられ、罪を赦す為に捧げられる子羊の生贄として捧げられたことが明らかになりました。それはイエス様が旧新約聖書を貫くメシアであることの確証でもあります。創造主の神様による私たちの救いのご計画はこの様に完璧であること、それはこの世を治められる神様が全知全能なお方であることを証ししていることでもあります。そのご計画のクライマックスが主の復活であります。主イエス・キリストが復活なさったイースター礼拝を喜び感謝致します。

NO 158(2022年4月17日)

 

 

 

【釈迦はサタン?!

 

 実際にあった話だそうです。ある中学校でクリスチャンの学生と仏教を信じる学生が宗教の問題で口喧嘩をしました。各々自分の信じている宗教が正しくて本物だと主張しました。負けそうになったクリスチャンの学生が“釈迦はサタンだ!”と叫んでしまって大喧嘩になりました。クリスチャンの皆様にお聞きします。

 

 ”お釈迦様はサタンですか?”

 

 ”違います!”

 

 お釈迦様は救いの道を一生懸命に修道し悟りを得て、人々にその悟りを教えた大先生であります。だから仏教の教えは良い人間として生きる様に導きます。

 

 そんなに素晴らしい教えなのに”あなたは何故、その教えに従わないのか?”と言われると、仏教の教えによって私たちは救われる道を得ることが出来ないからです。人間の罪を解決する方法は仏教にはありません。それが私が仏教を信じない決定的な理由であり、私が牧師になった理由であります。

 

 聖書だけが世の始まりから終わりまでを教えて、人間の罪の始まりと苦しみの原因、その解決方法に対して教えています。聖書が創造主の神様から与えられた本だからです。

NO 157(2022年4月10日)

 

 

 

【人生で本当に大事なこと

 

 「もしかして毎日をあなたの人生の最後の日の様に考えて生きるならば、いつかそれが事実である日が必ず来る。」

 

 アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学卒業式にて語った言葉です。彼は“本日が私の最後の日であれば、今計画している仕事をやるだろうか?”と自問しながら生きたと告白しました。その結果、彼は時代のトレンドを引き起こす人物となりました。

 

 しかし、残念ながら彼はイエス・キリストを信じませんでした。時代のアイコンとも言われる素晴らしい物を発明しても彼は創造主である神様を知らず、人生の中で本当の大事なことである罪を解決する方法を知る努力をしませんでした。救われた私たちがこの世の中で生きる目的は生ける神様を崇め、主を喜び神様の御旨に従う為であります。そして、その愛が隣人愛を通して実際に現すことです。それが救われた者の役目であり、使命です。私たちが仕えるべきイエスはそこにいるからです。

NO 156(2022年4月3日)

 

 

 

【傍観の罪

 

 「世は悪を行う者によって滅びるのではなく、それを知りながらも何もしない者によって滅びるだろう。」この話しはアルベルト・アインシュタインが語った言葉です。

 

 「人が罪に陥ったとき、すなわち、その人自身が見ていたり知っていたりする証人であるのに、証言しなければのろわれるという声を聞きながらも、それをしない場合、その人は咎を負わなければならない。」レビ5:1

 

 聖書では、ある罪を目撃したり知った時に、それに対して傍観した場合には、その罪が沈黙した者に帰することを警告しています。何故ならば、沈黙の罪は黙秘行為によって真実が歪曲される状況を言葉の通りに傍観することであるからです。

 

 社会に不義に対して真実を暴こうとする良心宣言する人が少ない理由は、そういう行為が損として戻って来るからであり、それは私たちが生きているこの社会がどれ程、不義に満ちているのかを現す反証でもあるでしょう。

NO 155(2022年3月27日)

 

 

 

【信仰と理性

 

 「信仰を前提にしない理性は傲慢であり、理性を用いない信仰は怠慢である。」

 

 この言葉は中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、11世紀にカンタベリー大司教であったアンセルムスが語った有名な名言であります。

 

 その意味とは御ことばで天地万物を創造なさった広大なる神様を先ず信仰によって信じず、自分の頭で理解しようとする試みは愚かなことかつ傲慢なことである説明であり、また何も考えずに聖書を無条件に信じることは盲信であり、そのような信仰も健康的ではなく寧ろ怠慢な態度であることを教えています。

 

 私たちは「聖書通読の学び」を通して、聖書に関して学んでいます。それは全知全能な生ける神様を信じつつ、主によって与えられた御ことばの権威を認めて、私たちに与えられた理性を用いて学ぶ信仰の訓練であります。今回の学びによって私たちはより深く聖書を理解することが出来るでしょう。

NO 154(2022年3月20日)

 

 

 

【幸福

 

 最近よく聴いている韓国語CCM(Contemporary Christian Music現代基督教音楽)があります。「幸福」というタイトルの曲で、聖書によって真の真理を悟られた聖徒の信仰告白として慰められます。その歌詞は次の通りです。

 

 華やかでなくても貞潔に生きる人生

 豊かでなくても感謝しつつ生きる人生

 私にくださった小さな力を分かち合って生きる人生

 これが私の人生の幸せである

 

 これが幸せ、幸せである

 この世は知らない神のプレゼント

 これが幸せ、幸せである

 神の子どもとして生きること

  これが幸せである

 

 涙出ること多いけど、祈ることが出来ること

 悔しいこと多いけど、主の為に我慢すること

 たとえ短くてみすぼらしい人生(であったも)

 主のみ旨の通りに生きること

 これが私の人生の幸せである

 

 これが幸せ、幸せである

 この世は知らない神のプレゼント

 これが幸せ、幸せである

 神の子どもとして生きること

 これが幸せである (李訳)

 

 私は時々思います。私たちは限られている人生の中で何を求めて生きるべきなのか。この世の人々が一生懸命に求めていることは幻ではないかと。

NO 153(2022年3月13日)

 

 

 

【ロシアのウクライナ侵攻

 

 2月24日、ロシアがウクライナを侵攻しました。

 ロシアは歴史的に1812年フランスのナポレオンによって、1914年ドイツによって、1941年ヒトラーのナチスによって襲われた経験があった為に西方勢力に対して実際的な威嚇を感じていましたが、ウクライナがNATO(北大西洋条約機構)に加入しようとする動きがロシアの恐れの火種に油をかけたこととなりました。

 

 ロシアはウクライナ侵攻には地域紛争として軽く見て大隊戦術団レベルの部隊を派遣したのですが、戦争に反対するヨーロッパ諸国の物資援助とウクライナ人の闘志によってロシアが苦戦している形勢です。ロシアの予想の通りにならないことによって、今後全面戦争の可能性が高まっていて、全世界が戦争に巻き込まれ第3次世界大戦にまで拡戦される恐れがあります。

 

 この戦争が終末の時に起こる聖書の預言であるのか確かではありませんが、この様な時に私たちはクリスチャンとしてとる正しい信仰の態度に対して注意を払う必要があります。

NO 152(2022年3月6日)

 

 

 

【天国に持って行けるたった一つのもの

 

 人間はこの世に生まれる時に両手の拳をしっかり握って生まれます。まるで何かを得ようとする様に。そして、人によっては成功したり、まあまあな人生を生きたり、失敗ばかりをしたりしますが誰もが辿るこの世を離れる時には固く握っていた両手の拳を開いて去ります。まるで何も得ることは無かったことを示すように。

 

 この世に於いて大きな成功を収めたとしてもこの世にて得た物をあの世に持って帰れる人は誰もいません。たった一つだけを除いて。

 

 イエス・キリストを信じる私たちが天国に入ったら私が誰であるのかが分かります。そういうことをアイデンティティ(自己正体性)と言います。そしてアイデンティティを構成するのが品性であります。つまり私たちはこの世に於いて磨いた品性(満ち満ちたキリストの背丈にまで成長すること・聖化)のままに天国に入ることとなるでしょう。そしてそれがこの世にて生きる大事な意味でもあります。

NO 151(2022年2月27日)

 

 

 

【霊的に不健康な教会の10の警告信号

 

 アメリカの基督教インターネットメディアのEmma Danzeyが『霊的に不健康な教会の10の警告信号』という記事を載せて、教会が本質を失う時を警告しています。

 

 その内容を簡単に纏めると

 ①担任牧師が全ての権力を握っている。

 ②教会の財政が不透明である。

 ③聖書以外の必修規範がある。

 ④教会が聖書の中の一部の御ことばを除く。

 ⑤教会の文化が排他的である。

 ⑥教職者が聖書を教えない。

 ⑦教会員のスモールグループがない。

 ⑧基督教信仰の本質を教えない。

 ⑨教会が讃美リーダーにフォーカスを当てる。

 ➉教会のリーダーが神様の御ことばを正確に解釈していない。であります。

 

 私たちの館山教会は如何でしょうか。

 教会の本質的な使命は「弟子作り」と「魂救い」でありますが、それより優先することがキリストの品性に倣って満ち満ちたキリスト・イエス様の背丈にまで成長すること、聖化しつつ聖霊の実を実ることであります。それは「天に国籍を持っていること」を意識する者だけが可能な事です。

NO 150(2022年2月20日)

 

 

 

【脳は否定の概念がわからない

 

 ある資料を見たら人間の脳は否定的な思考をすることが出来ないし否定的な概念を認知することが出来ないそうです。その話をします。“えっ?私はいつも否定的に考えたりするし、周りにもそういう方が多いけど…”と思われるかも知れませんが、その例を挙げましょう。

 

 ”皆さん、絶対考えないでね。ピンク色の象を!”

 

 如何でしたか?皆さんはいきなりピンクの象を思い浮かんだでしょう。私たちは脳に何をしない様にと命令することが出来ません。“しないで!”と言うと逆に強調するようになります。スキー選手が‘あの木にぶつかったらあかん!’と思うと脳はその木に集中してしまい結局ぶつかってしまいます。サッカー選手が‘ゴールポストに当ててはならない’と心に負担を感じる程、ボールはゴールポストに当たります。

 子供に“ソファーでお菓子を食べないで”と言うより、“食卓にて食べてね”と言うことがより効果的であります。だから私たちも信仰生活の中で“何々をしない”ではなく、“何々をしましょう!”の様に互いに励まし合いましょう。キリスト・イエス様の愛で互いに愛し合いましょう。

NO 149(2022年2月13日)

 

 

 

【試練中の神様の測り知れないご計画を信じて

 

 神学校の同期のN師は三人の子どもがいます。二番目の子は長男でダウン症として生まれ、ご夫婦は大変な思いをしていたでしょう。そして去年10月に、次女が生まれました(FBでその消息を知らされました)。長男のことで次女の誕生に夫婦がどれ程熱心に祈ったか、聞かなくても分かる程ですが、生憎またダウン症でした。

 

 N師夫妻が受けた衝撃は如何なものであったのか心配になりました。次女「かいな」は生まれながら合併症として心臓の心室に穴がある心室中隔欠損症と診断され2月2日に8時間に亘る手術を受けましたが、血栓が見つかり3日に二度目の手術を受けました。

 

 愛する子どもに起こった重なる悲報を親としてどの様に理解して受け止めるべきなのか、クリスチャンとして信仰に問われる問題です。祖父も父も牧師の家庭に起きた重なる人生の試練の最中に置かれているN師にただ伝えたい言葉は、「きっと神様の測り知れないご計画と不思議な導きがあること、この試練を乗り越えたご夫妻の輝く信仰によって神様の栄光が現れること、試練はあっても決して不幸ではないこと」です。ご夫婦がこの試練を乗り越えられる力を得ます様に、そして「かいな」ちゃんの為にお祈りください。

NO 148(2022年2月6日)

 

 

 

【爆発伝道訓練を終えて

 

 去年7月18日から始まった爆発伝道(Evangelism Explosion Japan)の学びがいよいよ終わり、4名の訓練生の方が修了式を迎えました。この学びは委託訓練である為、館山まで来て頂いた韓正美先生のご指導によって行われました。先生のご苦労に感謝します。

 

 OJTの学びを通して25名程の未信者の方に直接福音が伝えられたことはとても意義ある事です。今までの長い信仰人生の中で福音を伝えることが出来なかった訓練生の方が勇気をもって福音を伝えたこと、漠然として何をどの様に伝えるべきなのか分からなかった方がしっかりと福音の骨組みを立てて伝えるようになったことは大きな恵みであります。

 

 「真理を知っている者が真理を知らない者にその真理を伝えないことは罪である」様にイエス・キリストの故に奇しい神様の御恵みによって先に救われた私たちが未信者の方々に「救いの道」を伝えることは救われた者として当然な行いであり、主から頂いた使命であります。

NO 147(2022年1月30日)

 

 

 

【祈り

 

 私は祈りの熱心が自分の欲望の発現でない様に希望し努めます。祈りが私の貪欲によって引き起こされる熱情の表現ではない様に願います。

 

 祈りはイエス様のように。

 「時には夜を明かしながら切実に、時にはたった一言だけでも十分。」

 神様を切実に慕う心だけでも充分な祈りです。

 

 祈りは熱心によって自分の願いを成就することではなく、神様の御旨が私の人生の中で成し遂げられることを望み、私が神様の御心に合わせて変わることです。

 

 それはまるで太陽が昇ることを毎日願う事に喩えます。祈らなくても明日の太陽は昇ります。しかし、祈ると太陽が昇る時に私は目を覚まし旭光の煌びやかな日差しを浴びるでしょう。祈りは私の人生の規準を神様に合わせることであり、私の生活の周波数を主に合わせる行為であります。それでこそ「絶えず祈りなさい(Ⅰテサロニケ5:17)」の御ことばが私の人生で成就されることでしょう。

NO 146(2022年1月23日)

 

 

 

【レビ記の奥義

 

 新年決断の聖書通読が折れそうになる危機はレビ記を読む時に訪れます。それ程私たちはレビ記を難しい聖書として理解していますが、ユダヤ人は幼い時から最初に学ぶ聖書がレビ記です。それは生活の中でレビ記の実際的な影響力が重要であり深い奥義が隠されているからです。

 

 レビ記で教える5代祭祀の中で「穀物の捧げもの」と「交わりの生贄」、また「贖罪の生贄」は祭司、「交わりの生贄」は生贄を捧げる者と第三者が共に生贄を食べなければならない決まりがありました。神様に捧げる最も聖なる生贄を共に食べることまでが祭祀であることの教えです。それは今日の礼拝が神様に捧げる儀式だけでなく、聖徒の愛餐のコイノニアによる隣人愛を現すまでが礼拝の完成であることを教えています。だから愛餐会に参加しない聖徒は信仰がバランスよく成長出来ない理由がそこにあります。

 

 コロナ過によって愛餐会が中止になっているこの時代は霊的な危機であることを忘れてはいけません。

NO 145(2022年1月16日)

 

 

 

【牧場の集いの目標

 

 「牧場の集いの目標」は何でしょうか。

 それは神様の愛を確認し、生きておられる神様を経験することです。VIP(未信者)が牧場の集いに参加すると生き生きとしてよりアクティブな集いとなることは間違いないし、魂救いの期待感が高まることによる喜びがあるのは確かでありますが、牧場の集いはVIPに仕えることが目的ではありません。

 

 牧員同士が一週間を生きておられる神様と共に歩んだ喜びとその体験を分かち合うことが大事です。祈りの力と神様の愛を分かち合い、感謝しつつ共に励まし合うことによって私たちは神体験をすることが出来ます。

 

 VIPが初めて来られた日には私たちが各々経験した信仰生活の証しを分かち合うことをお勧めします。牧場の集いが神様を経験する集い、主の御恵みを分かち合う集いになると、生きておられる神様のご臨在を味わうことが出来るはずです。私たちが信じている神様はこの世を創造なさい私たち人間を造られた本物の神様だからです。

NO 144(2022年1月9日)

 

 

 

【老衰の祝福

 

 私たちは歳を取ることによって体も精神も衰弱してきます。それが自然の摂理でありますが、人間は何故、老衰されますか。それは人体の機能が落ちていくからと言えば簡単ですが、私は違う理由を考えます。

 

 アダムによって人間は死ぬしかない罪人となりました。私は”罪人として生きる人生って結構大変だな~”とよく感じます。この様な体を持って永遠に生きると思うと惨く感じます。だから罪人である私たちにとって死とは神様による祝福の一つであると確信します。罪人である私たちの齢が傾くことによって衰弱されることは人生の最後の時に創造主の神様を思い、求めさせる為の神様のみ旨ではないかと感じます。

 

 体が丈夫な時には世を号令し、他人を軽んじた人々が、そして人に害悪を及んでいた者たちが体と精神の衰弱によって謙遜を学ぶようになるかも知れません。弱さによって創造主の神様を畏れ敬虔となり、周りの人々と神様を謙遜に求める人生の最後の時を通して救いの機会が訪れるかも知れません。

NO 143(2022年1月2日)

 

 

 

【教会に招待された方が定着する為には

 

 キリスト教オンラインサイトDan Railandに「教会に招待された方が定着する為の4つの方法」という記事が載りました。

 

 その内容とは未信者の方が

 ①神様の存在と臨在を感じた時、

 ②教会の主なリーダーたちが真実と感じた時、

 ③礼拝が聖書的であり真心から捧げられていると感じた時、

 ④奉仕者たちと教会員たちの愛と親切を感じた時であります。

 

 何かの演出によっては未信者の方を導き、一回くらい礼拝に招くことは出来るかも知れませんが、その方々が救い主のキリストを受け入れ、救われる為には、誠実かつ緻密に仕える愛と、聖書の御ことばの学び、そして絶えない祈りによる聖霊の導きが要ります。キリストによって先に救われ、祝福された我々が、まだ救いの奥義を知らず、その価値が分からない方々に仕える愛を通して魂が救われると、どれ程、素晴らしい事となるでしょうか。神様が私たちを愛してくださったように私たちもその愛を未信者の方々に表しましょう。

NO 142(2021年12月26日)

 

 

 

【人間の貪欲と救い主の聖誕

 

 人間の苦しみの全ての根源は「貪欲」であります。貪欲とは自分の器を超えて欲張ることを意味します。それは最初の人間のアダムが「神の様になる」為に「善と悪を知る木の実」を食べて神様との契約を破ったことが原因となります。その貪欲によって人間は「神の様になること」を求めて、当然に神様が決めてくださるべき「善と悪」という概念を人間が決める様になりました。

 

 私たちは全能者ではないから自分の判断に自信を持ってはなりません。私達は自分の体も感情も上手にコントロール出来ないし、自分に益となることの判断が出来ない完全な無能な者であります。この様な罪人である私たちの為に神様がこの世に来られました。私たちの罪を解決する方法はそれしか無かったからでした。神様が人間の姿としてこの世に来られたその日を喜び、神様を讃える礼拝がクリスマスです。造物主が被造物の姿に来られたことの深い奥義を悟る事によって人間は貪欲から真の自由になることが出来ます。主イエス様がこの世に来られました。

NO 141(2021年12月19日)

 

 

 

 

【変装した祝福

 

 人生には失敗、病、年の老い、死 等々の苦しみが絶えなく、この様な苦難さえ無ければどんなに幸せなんだろうと思う時があります。人間は元々幸せに生きる様に創造されましたが最初の人間アダムの罪によって私たちは苦しみの絶えない人生を過ごしています(創世記3:16-19)。そうであれば人生の苦しみとは神様から与えられた罰でしょうか。

 

 そうではありません。

 

 罪人である私達に与えられた人生の苦しみは罰ではなく、「変装した祝福」であります。人間は人生の中で苦しみがない時、自分が幸せであると感じている時には誰も神様の存在を意識しないまま、神様を求めずに自分勝手に生きようとします。そして人生の苦難を通して生ける神様を求める様になります。苦しみによって自分の弱さを感じ、自分の力では何も出来ないことを自覚した上でやっと私たちは全知全能なる神様を覚え求めるようになります。だから苦しみとは私達を神様に立ち返らせる道標なのです。

NO 140(2021年12月12日)

 

 

 

【否定的な人を変える為には

 

 この前のコラムで肯定的な人生を生きる為には先ず肯定的な考えが大事である話しをしました。人は生まれながら否定的な者はいないので、全てが習慣と環境によって否定的になるものです。長い間、否定的な考えと態度によって生きていた人を無理やり肯定的に生きる様に押し付けることは出来ません。家庭や周りの環境によって否定的になった人が変わる為には緻密に長い間の支持と暖かい励ましが必要であります。

 

 既に否定的になっている人をどの様に激励すればいいでしょうか。先ずは私たちの思考を変える必要があります。「肯定的な者は飛行機を開発する者であり、否定的な者はパラシュートを開発する者です。」空を見て飛ぶことを夢見る者も必要でありますが、飛行機が落ちたらどうするのかを悩む人も必要です。否定的な者を肯定的な者に変える為には先ず、私たちが否定的な人に対する否定的な考えを変えることが優先されるのです。私たちを造られた神様の御前では不必要な者は一人もいないし皆益となるからです。

NO 139(2021年12月5日)

 

 

 

【国民の命を守る事より至急なものはない

 

 コロナワクチン接種率の増加によって全世界がウィズコロナに変わりその結果、ウィズコロナを実行している国々には再びコロナ感染者数が爆発的に増え続けています。その中で政府が特別なコロナ防疫政策を取っていないのに唯一に感染者の数が減り続けている日本は何故コロナが収まっている様なのかと医療専門家たちでさえ原因が分からない状況ですが、その原因として挙げられるのがいくつかあります。

 

 PCR検査が有料になったことによって検査者の数が大幅減ったこと、重症者だけが入院出来る為に自宅で死んだ人の死因が判明されてないし、コロナ感染者に加えないことです。

 

 更にニュースに報じられない最も大きな原因として挙げられるのが現在日本で広がっているデルタ変異株コロナはスパイクタンパク質の変異が酷い特徴として米国FTAではスパイクタンパク質の変異を3か所以上の検出できるPCR検査キットで検査することを強く勧めています。しかし、その検査キットの殆どが韓国産なので日本では使用していない為に実際にスパイクタンパク質の変異を検出することが難しい事情があることです。

NO 138(2021年11月28日)

 

 

 

【成功

 

 イギリスの事業家であるケリー・チェという方がいます。最近ヨーロッパでセンセーションを巻き起こしているケリーデリーの会長であり、イギリスでエリザベス女王よりも財産が多い方とも言われている程ですが、彼女は14年前までは1億円の借金によって自殺したいと悩んでいた人でした。彼女は成功する為に世界の成功者たちに関する本を一千冊程読んで、成功の秘訣を見つけたそうです。そして、彼女が見つけた世界中の成功者たちの共通点の三つは次の通りです。

 

 一つ、肯定的に考える。

 二つ、肯定的な言葉を遣う。

 三つ、愛(協力業者を成功させる思い)を表す。

 

 やっぱり肯定的な考えは肯定的な言葉を産み出し、肯定的な言葉は肯定的な行動を引き出し、肯定的な行動は肯定的な習慣を身につけ、肯定的な習慣は肯定的な生活を営み、肯定的な生活は肯定的な運命を齎しますね。

 

 全てが聖書の世界観(価値観)と繋がっています。聖書は人間の罪を解決する為、真理に導く経典でありますが人生の幸せと真の成功も与えるものです。何故ならば、父なる神様は私たちを愛されるお方だからです。

NO 137(2021年11月21日)

 

 

 

【怒り

 

 私たちが自分意外の他人(家族も含む)と共に幸せに生きる為には怒りという感情に対して正しく理解する必要があります。

 

 人の怒りは神様の義を実現しない(ヤコブ1:20)ので共に幸せな世界を築くことを妨げます。悲しい、悔しい、恥ずかしい、恐れ等の感情は一次感情であり、一次感情、又は一次要因によって誘発された二次感情が怒りです。怒りは我慢することで解決されるものではありません。よく怒る者は一次感情から二次感情に直ぐ移ってしまう者です。悪い習慣によってその様になった訳なので何事にもよく怒ることも習慣なのです。ある反応に対して腹を立てたならば、何故、その様な二次感情の怒りを感じられたのかをじっくり考えると怒りの虜になることから解放出来るはずです。怒りを感じる時、自分の一次感情に素直に向き合いじっくり考えることによって怒りの原因となる一次感情を理解する様になります。

NO 136(2021年11月14日)

 

 

 

【伝道をしなければならない理由

 

 爆発伝道の学びを通して伝道の方法を学んでいる4人の受講生の方々がいよいよ理論の学びを終えOJT(On-the-Job Training実習)過程に入りました。

 

 この学びはイエス様が命じられた福音を伝える働きを全うする為(マタイ28:18-20)に行うものですが、元々福音を伝えることは安易なことではありません。何故ならば、この世の人々は福音に耳を傾けようともせず、イエス様を受け入れようともしないからです。興味を示さない者、拒む者に福音を伝えることは大変なことであり、私たちは拒絶されることに対する恐れを持っています。その様に大変な伝道を私たちは何故、しなければなりませんか。

 

 それは私たちがイエス・キリストによって救われ、新しい命を得た者であるからです。真理を知っている者が真理を知らない者にその真理を伝えないことは罪で有ります(Ⅱ列王記7:9)。だから私たちは主によって恵みを受けた者として、救いの道(真理)を伝えなければならない使命があります。未信者の方々は滅びの道を歩んでいても平気です。その理由はその道が死に至る道であることを自覚していないからです。しかし、私たちは知っているからどんなことがあっても宣べ伝えなければなりません。

NO 135(2021年11月7日)

 

 

 

【神様中心に生きる者 VS 自分中心に生きる者

 

 先週25-26日に韓国にて行われた「第98回 家の教会 牧会者カンファレンス」に映像で参加しました。今回も世界から1千名以上の牧会者の方々が参加しました。私は「神様を経験する道」の学びを受講しましたが、受講の中で大きな不満を感じました。その理由は講師の先生が全体時間割の通りに進まなかったし、録画された映像で学びましたが、映像の画質が相当悪くて文字が読めない程で、更に講師の声も半分くらいしか聞こえない程、悪かったからでした。

 

 私は「期待して参加した受講者たちに対する準備が足りなかったこと」に腹を立てました。途中で‘今回は辞めた方がいいのかな~’とも思ってしまいました。

 

 そういう中で、あなたは「神様中心に生きる者なのか、自分中心に生きる者なのか。」のテーマでグループ分かち合いをする中で、私自身は徹底的に【自分中心に生きる者】であることに気が付きました。それを率直に他の先生と分かち合った途端、その後からも状況は全く変わらなかったのですが、私の心の中の不満は完全に消え、平穏な思いに包まれ、最後まで恵みで満たされる不思議な体験をしました。

NO 134(2021年10月31日)

 

 

 

【名ばかりのキリスト教施設

 

 韓国には240余りの子ども施設がありますが、その98%がキリスト教財団だそうです。殆どのキリスト教財団の施設では毎週、様々な礼拝が行われ、キリスト教の世界観による教育がなされています。

 

 あるキリスト教施設出身のキム・ソンミンさんは“施設出身の多くの子たちは高卒後出所すると、絶対に教会には行きません。施設生活の中で行われた不条理を見たから、「神様は絶対いないだろう」と思うからです。キリスト教施設の中での経験によって、教会とキリスト教に対する否定的な思いを超え、教会を軽蔑する様になってしまうからです。”と言いました。彼も出所後、信仰から離れましたが、後に立ち返りました。

 

 そういう名ばかりのキリスト教施設の問題はただ韓国だけの問題ではありません。私たちの生き様を見て「私もあなたの様なキリスト者になりたい」と思われる人生を生きる事こそが福音によって生きる人生であり真の宣教でもあるでしょう。

NO 133(2021年10月24日)

 

 

 

【ラベリング理論

 

 「逸脱行動」に関する理論で、1960年代にハワード・ベッカーらによって提唱された「ラベリング理論」というのがあります。

 

 例えば、病院で医師から「あなたはうつ病です」と言われると、家に帰って運動したくなかったら、“うつだからやりたくないだろう”と思ってやりません。翌日、仕事に行きたくなかったら、“うつだからだ”と思い行きません。全ての原因を「うつ病」というラベルを付けて思ってしまい、ラベルを付けた瞬間、私は元々その様な者になってしまいます。自分がそう思うと、周りからも “あなたの顔色が悪いね。何かが有ったの?”ではなく、“薬を飲んでなかった?”と言われるようになります。全てが「ラベル」によって決めつけられるのです。

 

 しかし、神様は私達に自由意志を与えてくださいました。何かの虜になることは神様の御旨ではありません。自分に付けていた(又は付けられていた)、ラベルを取り除きましょう。全てに於いてキリストによる信仰を持って、勝利する者となりましょう。主が助けてくださいます。

NO 132(2021年10月17日)

 

 

 

【妥協してはならないこと

 

 20世紀最大の説教者とも呼ばれるマーティン・ロイドジョンズは講解説教で有名であり、その説教集は福音派では金科玉条のように読まれています。しかし、彼の説教は決して大衆的ではありません。彼自身も自分の説教に於いて“耐え難い説教”と語っている程、彼の説教は真理だけを語る固執が確固として、決して妥協しません。だから彼を反対する人々からは独善であり、我執と言われたりもします。

 

 真理とは確かに独善的な面があることを否定出来ません。純粋な真っ白い色は他の色に全く余地を与えない様に福音も同じです。イエス・キリストだけが救い主であるのが真理です。イエス・キリストも救い主ではなく、イエス・キリスト「だけ」が救い主なのです。私たちが生きているこの時代は益々福音を蔑み、関心を持たなくなります。徹底的に真理を拒み続ける時代の中で真理の御ことばによる正しい分別力が必要であります。

NO 131(2021年10月10日)

 

 

 

【祈りの証しが少ない理由

 

 私たちは祈りを通して「柿の木の下で梨を得る様に」神様がシュッと奇跡によって応答してくださることを願ったりします。それは神秘的な体験に憧れて、祈りを通して求めることです。その結果、イエス・キリストを信じるクリスチャンでさえ祈りの応答の体験が少なく、生きておられる神様の体験が少ないのです。何故ならば、柿の木から梨を得ることは誰かが投げない限りないからです。クリスチャンたちは“誰々さんが柿の木の下で梨を拾ったって!”と言い伝えながら‘自分もいつかは拾えるかも~’と望んでいます。柿の木の下で梨を拾った者だけがその成功を証しするから、クリスチャンの祈りの証しが多くないわけです。

 

 神様は奇跡を与えてくださるお方でありますが、基本は人々との出会いの中で、そして苦難と逆境の中で徹底的に真理の為に罪と戦う経験を通して私たちを成長させてくださるお方です。そして、その様な経験によって得た実こそが尊いものであり成長に繋がる祈りの実なのです。だから私たちは奇跡を求める祈りではなく、この世の中で聖なる者として生きる様に、頂いた使命を全うしつつ成長する様に祈るべきでしょう。

 

「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」エレミヤ12:5

NO 130(2021年10月3日)

 

 

 

【日本同盟基督教団130周年

 

 1891年11月22日にスカンジナビアン・アライアンス・ミッションの15名の宣教師が横浜に上陸したことによって日本同盟基督教団の歴史が始まりました。男性6人と女性9人の宣教師の殆どが20代の若者でした。

 

  今年で130周年を迎えた教団は261の教会を立てた国内宣教と海外に宣教師を派遣する国外宣教に励み続けています。先週9月23日にリモートで行われた記念大会に奨励のことばを語られた朝岡勝理事長は“日本同盟基督教団だけが用いられる130周年となってはいけない。誰も手を上げない時に手を上げ、誰も行こうとしない所に行く教団になって欲しい!”と述べました。それが私たちの教団のアイデンティティであると思います。同盟教団は疎外された所、難しい所に教会を立てることを躊躇しませんでした。その結果、同盟教団に属している教会の規模は小さいのです。しかし、私はそれが誇らしいです。

NO 129(2021年9月26日)

 

 

 

【子どもたちを教会から離れさせる親の良くない信仰習慣

 

 海外日刊紙のアレテイア(ALETEIA:真理というギリシャ語)が「子どもたちを教会から離れさせる親の良くない信仰習慣」の6項目を載せました。その内容を見ると、

①教会の礼拝にたまに参加する

②教会と牧師に対して不平、失望、誹謗したり、葛藤したりすることを見せる

③子どもたちを青少年文化だけに限らせて経験させる

④大事な質問を無視する

⑤教会を頻繁に替える

⑥福音を軽んじて扱うことを挙げました。

 

 子どもは親の教えを聞いて育つのではなく、親の背中を見て育つのです。

 親が神様を固く信じ、主の御ことばに畏れつつ従うと、子どもも神様の存在を意識するようになります。親が教会を愛し大事にすると、子どもも教会を大切にするのです。

 

 全てが態度という一つの言葉で纏められます。信仰は態度であるからです。私たちの信仰は神様に対する態度、隣人に対する態度によって必ず現れます。そして子どもたちがそれを見て学びます。

NO 128(2021年9月19日)

 

 

 

【心を守ること

 

 人間は誰もが自分中心的な者であり自分の判断を最優先する者であります。それはアダムの罪によって、人間が神様のように善悪を知るようになった(創世記3:22、善悪の判断を人間が決めるようになった)からでした。

 

  公益追及型人間と私益追及型人間とどちらが正しいですか。言うまでもなく公益追及型人間です。神様は社会的な弱者であるやもめ、孤児、外国人を助けて共に生きる社会を建設するように何度も命じられました。だから公益追及型人間は旧新約聖書を通して、神様が一途に教える人間に対する基本理念である「真実、愛、公正、(正)義」を大事にして実践して生きる者であります。

 

 私たちにイエス・キリストの贖いによって与えられた救いが聖化の信仰生活の中で完成する為に、最も大事なことがこの四つの基本理念であります。そして、それは健全な良心と純真な信仰によって実践できるものです。したがって、私たちが自分の罪性を捨てて神様の御旨に従って生きる為に最も優先することは私たちの良心、心を守ることであります。皆さんの心は守られていますか。

NO 127(2021年9月12日)

 

 

 

【石井姉妹の霊魂を主の御前に送って

 

 溝本朋子姉の御母さんである石井由子さんが先週8月30日に早天されまして(享年91歳)、昨日お葬式が執り行われました。私たちは皆死ぬ存在であり、館山教会の多くの方々は高齢者である為にこの世を去る方々がいらっしゃることは承知していながらも、送る側としては悲しくて寂しいものです。神様は私達にこの地に於いて奇しき縁によって家族という関係を与えてくださいました。私たちが選択することの出来ないことです。だから主によって繋がったその縁はとても大事なものであるのです。だからこそ私たちは人間が救われる唯一の道であるイエス・キリストの福音を家族に必ず伝えなければならない使命があります。その使命は私だけに与えられた使命なのです。石井由子さんは7月4日にイエス・キリストを受け入れ、バプテスマが授けられました。間違いなく長い間、娘の溝本朋子さんの祈りと私たちの祈りによる実りであります。そして、主の限りない愛による特別な祝福であります。再会する日を楽しみつつ。

NO 126(2021年9月5日)

 

 

 

【ある宣教師の遺志

 

 先週、私が属している日本福音宣教会(JEM)の宣教師大会が三日間リモートで行われました。日本と韓国、そしてオーストラリアにて日本宣教に励んでいる韓国人宣教師たちが集まり、主による励ましを頂き、使命を確かめる時間でした。最終日には今年1月に癌を患い3月に凱旋された李貞姫(イ・ジョンヒ)宣教師(享年66歳)を偲ぶ時が持たれました。李宣教師は召される直前までも“私は日本に帰らなければならない。日本人に福音を伝えなければならない!”と強く言い続けたそうです。李宣教師は協力宣教師として20年間日本で宣教の働きを全うしました。協力宣教師の働きは安定されない、周りが不安を感じられる宣教活動でしたが、日本人の皆さんにキリストの福音を伝えることに誰よりも熱心を持って尽力を尽くしました。日本に残って宣教の活動をしている私たちも李宣教師の遺志を受け継ぎ頑張りたいと願っています。

NO 125(2021年8月29日)

 

 

 

【傷

 

  オリンピックの金メダルを取った選手たちを見ると、一人も例外なく訓練と試合による傷があり、痛みによって苦しんでいるようです。それは金メダリストだけでなく、選手たちの殆どに当たる話です。耳が潰れたり、手足の指が曲がったり、骨が折れた傷等々彼らはその傷を持ち続けながらも金メダルを取る目標の為に骨折って努力します。スポーツ選手の中で傷がなく痛みの経験を知らない者は初心者のみです。

 

  キリスト者の霊的な原理も同じです。イエス様を信じて、主の教えに従っているキリスト者であれば誰も傷(焼き印・スティグマ)があります(ガラテヤ6:17)。主からの使命を全うする為に、御ことばの従順によって受けた傷です。主に従う為に踠けば踠く程、その傷は深く傷跡は鮮明です。そして、その傷跡が多ければ多い程、霊的には成長し成熟されて行きます。傷跡が多い程、私たちも神様から頂く金メダルに近いのです。

NO 124(2021年8月22日)

 

 

 

【価値観

 

  ある教会を牧会している牧師がいました。規模が大きい教会から担任に招聘する誘いがありました。暫くは二つの教会を兼牧しながら後に今の教会の働きを辞めることを条件として受け入れました。しかし、何年経っても辞めないので役員たちは牧師に早く辞めるように催促しました。牧師が答えました。“この教会から出る献金がいくらなのか分かるのか。辞められませんよ。”

 

  信じられない話でした。本当のことなのか疑いたくなる程、信じたくない話でした。その牧師が教会を辞められなかった理由が「魂が心配」ではなくお金の問題でした。この世の価値観(世界観)によって生きると牧師であれ、誰であれみんな世俗的な者として生きますし、その様な人生の結末は決まっています。私たちは聖書によって語られる神様の約束の御ことばを絶対に忘れてはいけません。私たちが生きるこの世は御國へ歩む旅路に過ぎないことを。

NO 123(2021年8月15日)

 

 

 

【信仰の確信

 

  皆さんに質問します。心の中で答えてみてください。

 

 “若しかしてあなたが今日死ぬことになると、

 あなたは天国に行くと思いますか?地獄に行くと思いますか?”

 

 教会に長く通っていた方であれば正解を知っていますので“私はイエス様を信じているから天国に行く。”と簡単に思います。しかし、聖書の神学的な正解を求めているのではなく、皆さんの心の思いを答えて欲しいです。

 

 信仰歴が長い者の中で礼拝が生活の習慣になっているだけで、実は福音によって生きていない宗教人が意外に多いのです。そのような者を聖書は「見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者(Ⅱテモテ3:5)」と言います。心の中に本当にイエス・キリストを受け入れたのか、是非確認してください。イエス様を本当に受け入れた者はイエス様が喜ぶことを共に喜びそれに従い、主が嫌うことを共に嫌いそれを断ち切る為に骨折って努力します。皆さんは如何ですか。

NO 122(2021年8月8日)

 

 

 

【神様を認めない理由

 

  ドイツの哲学者であり近代無神論の始祖とも言われるルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは人間が神を作ったと主張しました。彼は神という存在は人間を投影したものであると言っています。しかし、人間は神を作り上げただけでなく神になろうとする存在であります。「善悪の知識の実」を食べてしまった人間に対して創世記3:22で神様は“人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった”と語られました。この意味は善悪の判断を創造主の神様ではなく人間がするようになったということです。人類の歴史を通して善し悪しの判断を人間がしてから人間の不幸が始まりました。人間が自分の目に良いと見えることを行うこと(士師記21:25)が全ての問題の原因であります。そしてそれは罪の結果によるものです。無能力な者が全能者のように振る舞うことが人間の悲劇を生みました。人間を造った神様を認めない程、人間は堕落してしまい善悪を正しく弁える力がないことを私たちは認識しなければなりません。

NO 121(2021年8月1日)

 

 

 

【牧師の説教

 

  ある若い牧師が神様の厳しい御ことばによって聖徒たちに警告の説教を取り継ぎました。礼拝後、ある女性長老がその牧師に言いました。“先生の説教は正しいですが、先生は世のことをあまりにも知らないのです。聖書の御ことばの通りに生きると商売は出来ません。そのような説教は1年に1回くらいで良いでしょう。” その様な文句を聞いた若い牧師は辞める覚悟をして次の礼拝に再び同じ説教をしました。

 

  牧師は聖徒の生活がどれ程大変なのか、どれ程辛いのか詳しく知ることは出来ません。しかし、時代と環境がどんなに変わっても神様の御ことばの権威と御約束は変わらないので牧師は聖書の御ことばをありのままに取り継がなければなりません。それが牧師の役目です。牧師は聖徒の生活を詳しく知らなくても神様は全部知っておられるからです。そして、その聖書の御ことばが私たちの人生の規準となり私たちを生かしてくださり導いてくださいます。神様は生きておられるからです。主の御声に従って生きましょう。

NO 120(2021年7月25日)

 

 

 

【聖書の理解

 

  人間の人格を形成する要素とは「知・情・意」であり、それは人間の成熟の為にとても重要なものであります。「知」とは知識、知恵、認知、認識、分別、理解、省察等を言い、「情」とは感情、愛、喜怒哀楽、熱情、愛情、愛着、配慮等であり、「意」とは意志、意思、決定、選択、ビジョン、決断、努力、誠実、実践、行い等を含むことです。

 

  人間の全ての思考・行動構造はこの「知・情・意」によって働きますし、その流れも知→情→意の順であります。そしてその中で最も基本となるのが「知」であります。私たちが成熟した人間として生きる為には正しい学びが必要であり、神様の御旨に相応しく生きる為にも聖書の深い理解が必要であります。異端は私たちが見ている同じ聖書を用いて人々を惑わします。悪人も勝手に解釈した聖書の一部によって勇気を得るのです。どっちも正しい聖書の理解が欠けています。だから聖書の正しい学びと理解は私たちが正しい信仰者として生きる為に最も必修であります。

NO 119(2021年7月18日)

 

 

 

【関心がありません

 

“日本人の皆さんは何故、救い主であるイエス様を信じないのですか?”

 

  保育園職員礼拝の説教の時に愚痴をこぼしたことがあります。そして、それは意図をもって問いかけた質問でした。ある保育士の方が正解を言いました。

 

“関心がありません!”

 

  世の人々がイエス様を信じていない理由は関心がないからです。興味の無い人に何かを提示することは本当に難しいことです。世の人々はこの世のことで精一杯です。どうすれば全く興味のない人に興味を持たせることが出来るでしょうか。だから神様は人間の人生に苦難と苦しみを与えてくださるかも知れません。この世のことばかりに夢中になって生きている人を自覚させるためです。「天国とは人間が死んでいく所だけでなく、只今の人生の中で実現される所である。そして私は罪人であり滅びる者である」ことを深く悟ればこの世に夢中になっている人々の心がいつかは開かれるかも知れませんね。

NO 118(2021年7月11日)

 

 

 

【人生の苦しみ

 

 キリスト者の皆さんは毎日が幸せでしょうか。そんなことはありませんね。キリスト者も大変な時がありますし、むしろ幸せな時よりも大変な時の方が多いかも知れません。しかし、キリスト者は主による励ましと慰めがあります。毎瞬間与えられる主の恵みによって力付けられ、主による励ましによって生きる力を得るのです。

 

  イエス様と一緒に舟に乗っていた弟子たちは湖の大荒れと大波によって死の恐怖を経験しました(マタイ8:23-27)。弟子たちは結局眠っておられたイエス様に助けを求めました。イエス様が共にいる時さえも大荒れを経験した弟子たちの様にキリスト者の人生にも様々な苦しみは訪れます。

 

 その苦しみの原因は神様が私たちを成長させる為なのか、私たちの信仰の弱さによるものか、罪の故なのか分かりませんが、様々な理由によって私たちの信仰の人生にも苦しみが訪れます。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われました(ローマ10:13)。”皆さんはイエス様を呼び求めていますか。”

NO 117(2021年7月4日)

 

 

 

【洞察

 

 運動靴を履かず素足で遊んでいるアフリカの子どもたちの為に宣教師たちは運動靴をあげました。子どもたちは大変喜びました。運動靴を履いてから子どもたちの足裏は柔らかくなってしまい、何年後運動靴が擦り減った時に子どもたちは素足で歩いて石や棘に刺され傷を受けました。ある子どもは傷が膿んでしまい足を切断してしまいました。

 

  井戸がなくて遠い所まで水を汲みに行く大変な生活を可哀想に思い、宣教師たちは井戸を掘ってあげました。しかし、井戸を管理することを怠っていた結果、その町の井戸はあらゆるゴミに覆われ地下水まで汚染されてしまいました。

 

  根本的な問題の解決無しに一時の方便的な助けが生んだ結果でした。日本の宣教、館山の宣教の為に私たちが取り組むべき根本的な対策は何でしょうか。それは聖書が提示する聖書的な教会の「家の教会」です。終末の時に生きる私たちの生活はこれから益々混乱に陥ります。先が見えない時に必要なインサイト(洞察)は聖書でしか得られません。

NO 116(2021年6月27日)

 

 

 

【魂が私である

 

 人間を構成する三要素と言えば「肉、魂、霊」であると私たちは理解しています(へブル4:12、Ⅰテサロニケ5:23)。その理解によって“霊は神様を認識して礼拝する役割、そして魂は他人との関係の為に用いられる役割、そして肉はその主体となる私である”と考えています。その結果、私たちはよく“私の内に魂が宿っている”のように表現しますね。その意味は私の本体は体であり、その肉の内に魂と霊が宿っていると言うことでしょう。

 

 しかし、実はそれは間違った理解です。私の(肉の)内に魂が宿っているのではなく、「魂が私」なのです。魂が私であり、肉は私が入る器、若しくは服のようなものです。だからこの世の中で生きる時に私たちの器となる体が衰えたり壊れても私本体には何の変わり(影響)はありません。肉が死んだ人であってもその人(魂)は生きている(マルコ12:24-27、ルカ20:38)のです。だから聖書は私たち(魂)がキリストを着るように命じています(ローマ13:14)。また救いは私たちの魂と関係があることとして聖書は記録(Ⅰペテロ1:9)しています。そして、キリストの再臨の時に私たち(魂)は新しい体を着て御国で生きるのです。

NO 115(2021年6月20日)

 

 

 

【祈りのマニュアル

 

 先週、「御言葉に基づいた祈りのマニュアル」を配りました。皆さんは如何でしたか。お読みながら祈られたでしょうか。韓国の教会が、そして韓国人の李康雨(イ・カンウ)牧師が日本の教会の為に、日本の福音化の為に熱い想いを込めて作った祈りのマニュアルです。

 

  このマニュアルを読むと胸が熱くなります。祈りとは神様を信じている者、そして神様を神様として認める者が出来ることです。私は“体力がないから教会の為に何も出来ない”と思う方も、または“経済的な苦しみによって献金を捧げることも出来ない方”も教会と神様の御国の為に祈りによって働くことが出来ます。力もお金も掛かりません。体は日々衰えても神様に祈ることが出来ます。自分の罪を悔い改めて、未信者の家族、そして知り合いの方々の救いの為に、館山地域の宣教の為に、教会の働きと「家の教会」の働き、牧場と四人の牧者方々の為に、教会附属保育園の宣教活動の為に、そして日本政府と為政者たちの為に、世界宣教の為に神様の御業を信じて祈ることが出来ます。皆さん、生ける神様を信じて祈る者になりましょう。

NO 114(2021年6月13日)

 

 

 

【聖書的な教会を目指して

 

 「家の教会」の働きを最初に始めたアメリカのヒューストンソウル教会のチェ・ヨンギ先生は“何故、家の教会なのか。私は「家の教会」よりも、より優れた教会、聖書的な教会があれば今でも躊躇せずに替える思いがある。「家の教会」に取り組んでいる理由は「家の教会」が正に主イエス様が望んでおられる教会の姿であるからだ。”と述べました。

 

  私が2016年3月に館山教会に赴任して来た時から感じたことは私たちも認めるように館山教会は高齢者が中心となる教会であるため教会の未来が見えなかったことでした。それで皆さんに「私たちの館山教会は早ければ5年、遅くても10年後には危機がくる教会」と申し上げました。その後、私達は神様の導きの中で聖書的な教会を目指す「家の教会」に出会い希望を抱くようになりました。「家の教会」に変えてから私たちの館山教会は変わりました。「道コース」の学びを通して学んだ聖書の御ことばを「牧場の集い」の中で実践し「共同礼拝」を通して生ける神様を崇め決断する教会になりました。牧者の方々を始め私たちは「魂救いと弟子作り」のことを常に念頭に置いて頭となるイエス・キリストの体として私たち各々が聖書的な弟子と変わりつつあります。

NO 113(2021年6月6日)

 

 

 

【癌を無駄にしないで

 

 アメリカの神学者であり牧師であるジョン・パイパーが癌闘病してから書いた『癌を無駄にしないで』という本の序文にはこの様なことが書かれています。

①癌という苦難が与える意味を悟らなければ癌を無駄にすることである。

②癌を患う事が神様の良い計画であることを信じなければ癌を無駄にすることである。

③癌を患うことが呪いであると思うなら癌を無駄にすることである。

④生存率によって平安を感じるなら癌を無駄にすることである。

⑤死に対して黙想しなければ癌を無駄にすることである。

⑥闘病中イエス様よりも自分の命を愛する者は癌を無駄にすることである。

⑦神様よりも癌に関して熱心に調べると癌を無駄にすることである。

⑧闘病中に愛し合わずに自分を孤独に閉じ込めると癌を無駄にすることである。

⑨癌を患うことによって希望を失い悲しんでしまうと癌を無駄にすることである。

⑩癌を患った後でも罪に対して無感覚であれば癌を無駄にすることである。

⑪癌を通してイエス様の栄光を証しとしなければ癌を無駄にしたことになると述べています。

 

  私たちの人生の中で理由がない苦難はありません。全能なる神様がイエス様を死なせる程、私を愛されているなら只今受けている苦難は私に必要な苦難であることが分かります。

NO 112(2021年5月30日)

 

 

 

【神様を知り、自分を知ること

 

 聖フランシスコの伝わる逸話です。ある日、聖フランシスコが居なくなって弟子たちは大騒ぎになり先生を一生懸命に探しました。なかなか見当たらなかったが、奥山の洞穴にて祈っている先生を見つけました。呼ぼうとした時、ある弟子が言いました。“聖者と呼ばれる先生は普段どんな祈りをしているのか学びましょう。”弟子たちは皆、耳を傾けて先生の祈りに集中しました。そして、長い間その祈りを聞いた弟子たちは驚きました。何時間も続いた聖フランシスコの祈りはずっと一つの内容だけでした。それは「神様はどれ程偉大な方であり、自分はどれ程罪深い者であるのかを是非悟らせてください」でした。

 

 私たちが生きておられる全能なる神様を知り、自分の罪性を悟る時にこそ私たちはやっと正しく生きられます。私は館山教会附属保育園の職員の方々に必死に福音を伝えていますが、なかなか実が結ばれないことに悩んでいます。福音を伝えてもこの世の人々が全く動じない理由は自分がどれ程罪深い者であるのかを知らないからです。私たちは救い主キリストの贖いなしでは一瞬も正しく生きることが出来ない存在であります。

NO 111(2021年5月23日)

 

 

 

【主人意識

 

 タイ王国のメホンソンド・パイクンにフウェイボン教会があります。この教会は最初韓国の教会によって礼拝堂が建てられ、後にもう一つの礼拝堂がアメリカの教会によって建てられました。5メートル離れて二つの礼拝堂が並んでいることは不思議な光景ですが、更に不思議な事は主日にも人気が無く近づいて確認すると鍵がしまっていて教会の看板もありません。教会の椅子は倒れていて、讃美の時に使っていたギターも壊れています。教会堂の外のトイレと倉庫には落ち葉が転がり積もっています。事情を調べてみたらその教会は最初からずっと海外の教会によって支えられた挙句、主人意識がない信徒たちは皆教会から離れてしまったということでした。

 

 自分の力によってどんな苦難も乗り切る教会は大変な状況でも生き残りますが、他人によってずっと支えられた教会は大変な時に耐える力がありません。コロナによって韓国から宣教チームが来られないこの様な時に私たちにも深く考えさせられることです。

NO 110(2021年5月16日)

 

 

 

【基督の由来

 

 「基督」という言葉は救い主を意味するギリシャ語クリストスの当て字でありますが、完全な音訳ではありません。

 

 17世紀カトリックの宣教師ジャン・バゼによる文書にはクリストスを「基利士督」と音訳していました。それは中国語の発音はチリストゥでクリストスに近い発音を反映したことです。その後1814年、ロバート・モリソン宣教師は中国語で聖書翻訳する時に「基利斯督」という言葉を使いましたが、またその後「基利斯督」とそれを縮約した「基督」を混用して、後には「基督」が固着化されました。そして、中国の影響によって日本も韓国もキリストを「基督」という言葉で使っています。

 

 「基利斯督」は単純な当て字として聖書が教える意味とは関係ないので、「基督」という言葉は更に懸け離れた言葉となります。しかし「基督」は長い歴史の中で定着化された言葉として今更変える必要はないと考えられますが、「キリスト」は本来の発音に近く、救い主イエス様のアイデンティティを正しく表している言葉として必ずその意味を知っている必要があります。(シン・ドンス師のコラムから一部参照)

NO 109(2021年5月9日)

 

 

 

【子どものように

 

 本日の礼拝は「子どもの日」感謝礼拝として捧げます。子どもと言えば私は館山教会にて初めての説教で伝えたマルコ10:13-16御ことばが思い浮かびます。イエス様に祝福して貰いたいと思った親たちが子ともを連れて近づいて来た時、弟子たちは彼らを叱り追い出そうとしました。その時、主は止めてはいけないと語りながら“神の国はこの様な者達のものである”と語られました。

 

 ここで子どものようになることを多くのクリスチャン達は純粋な信仰を持つこととして理解していますが、それは間違った理解です。何故ならば、子どもは純粋な者ではなく罪人だからです。館山教会附属保育園で園児たちを観る度に感じることは教えてもない悪いことは直ぐ身につけてよく平気で行うことに気が付きます。

 

 主が語る子どものようになることの意味は「子どもが親だけを全的に信頼して追い求めること」を言います。一瞬、他のことに夢中になったとしても結局は親を探し追い求める子どもの様に、救い主イエス様だけを全的に信頼して追い求める者に神の国が与えられるのです。皆さんは全的に神様を追い求めているでしょうか。

NO 108(2021年5月2日)

 

 

 

【主の備え

 

 献身する時に主の御恵みがあまりにも大きかったので自分に念を押したことがあります。それは「この世に自分の名義の物は残さないこと」でした。それはこの世に未練を置かない為でした。だから家も車も私は買わないつもりでした。

 家は教会の牧師館にて過ごしているから大丈夫でした。

 

 車は会社に通っていた時から乗っていて10年間乗った姉会社の名義でした。そして、その車の車検が近づいてきました。車検代行の担当者からエンジンの状態が良くないから廃車を勧められました。2年くらいもうちょっと乗れないかと粘ったのですが、高速道路でエンジンが止まり急停止すると、大事故になりかねないと言われて諦めました。廃車をすると、これからどうするのか悩むかも知れませんが私の心は平安でした。

 

‘神様がくださるだろう。くださらなければ車なしに過ごそう。’

 

 廃車をすることを姉に伝えたら、ちょっと後に“長く付き合っていた中古車販売会社に15年経っているけど6万9千キロしか乗ってない良い状態の車があるから自分の名義で買ってあげる”と言われて、先週車を交換して貰いました。それで車のことで悩む暇もなく、自分の決断も守ることが出来ました。全てが神様の備えであり主と姉からの恵みでした。アドナイ・イルエ

NO 107(2021年4月25日)

 

 

 

【目を覚ましていますか

 

 コロナの全国的かつ急速な蔓延により2020年3月13日緊急事態宣言が下され同年5月25日解除された後、コロナ感染者数は減らず第1波から第3波まで来てしまい、2021年1月8日から2度目の緊急事態宣言が下され、3月21日緊急事態宣言が解除されました。しかし、緊急事態宣言が解除されても日本中に感染者数は減らず第4波まで来ています。

 

 緊急事態宣言の解除によって館山教会も1月15日から休んでいた牧場の集いを先週から再開しました。こういう時に私たちは牧場の集いを続けるべきであるのかと懸念する方がいらっしゃるかもしれません。しかし、私達はコロナは終末の徴であることを認識しなければなりません。私達は目を覚まして主イエス・キリストの再臨を準備する者であります。コロナの様な疫病は神様がこの世に示す裁きであり、疫病を通して神の義を求めキリストによる信仰に生きる本当の弟子たちを求めていることを知らなければなりません。皆様、目を覚ましていますか。

NO 106(2021年4月18日)

 

 

 

【God is now here.

 

 ある無神論者がこの世に神様はいないという主張を貫徹して宣伝しようと思い自分の家の屋根に看板を設置して次の様な文句を書き入れました。

 

「God is nowhere.(神はどこにもいない)」

 

 その後、長い歳月が過ぎて、その看板を作った人は死んでしまいました。そして、看板の文字も褪めてきました。しかし、不思議なことは最後の文字であるnowhereの単語のnowが特に変わってしまいました。その後、その看板を見る人々は誰も「God is nowhere.」とは読まなくなりました。何故ならば、皆の目には「God is now here.(神はここにいる)」と見えたからです。

 

 頑なな心と神様を認めない態度で画策した試みは逆に神様の全能さを表す契機となりました。私たちがこの世に生きていることは偶然ではなく、この世を創られた全知全能な神様のご計画によるものです。神様の愛と誠実によって私たちが救われたことをどんな時でも忘れずに主に従って生きましょう。神様はここに生きておられるからです。

NO 105(2021年4月11日)

 

 

 

【主に出会った者は変わる

 

 先週の礼拝に岸義紘先生が説教で“子ロバは人を乗せることが出来ないのに主であるイエス様の権威によって主を乗せた”と語られたことが印象深いでした。

 

 19世紀オックスフォード大学の宗教学の試験に出題された主観式の問題は「水を葡萄酒に変えたイエスの奇跡に対して論ぜよ」でした。試験スタートのベールが鳴ると学生たちは一斉に書き始めたが、一人の学生は茫と窓の外を凝視していました。監督官が注意したものの、その学生は試験に興味がなさそうでした。白紙で出されると零点となると厳しく注意されたところ、その学生は一行だけを書いて提出しました。しかし、この一行だけ書いた答案はその神学科の伝説となる満点の答案となりました。

 

 その学生の名はイギリス3代ロマン派詩人の一人であるジョージ・ゴードン・バイロンでした。彼が書いた満点の答案は「水が自分の主に出会うと顔を赤らめた」でありました。子ロバも水も自分の主に出会うと変わりました。主なるイエス様に会った私たちは何が変わっているでしょうか。

NO 104(2021年4月4日)

 

 

 

【ここにいることが素晴らしい

 

 変貌の山にてキリストの栄光を味わったペテロが言いました。

 

  “ここにいることが素晴らしい!”

 

  信仰がある者は何かを決める時に神様に長く祈りながら準備します。大事なことであればある程、その祈りは切実であります。そしてその祈りが答えられると跳び上がる程喜び、神様の応答を証ししたりします。しかし、神様が応答してくださったその道が険しくて自分の思いと違う時にはその道を直ぐ替えたり辞める信仰の人をよく見ます。そして替えた道がよい結果に結ぶと、神様が導いてくださった道であると飾ります。何故なら、本人自らが逃げたことをよく知っているからです。結局選択の動機が信仰のように見えても、最初から神様を利用してしまったことになります。聖書で用いられた神の人の中で神様から導かれた道が平穏な人は一人もいませんでした。「ここにいることが素晴らしい」を全て自分が判断して主は私が求める平穏無事で成功する道をくださいと期待することは聖書にはない概念であります。

NO 103(2021年3月28日)

 

 

 

【これもまた通り過ぎるだろう

 

 2010年バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート金メダリストの金ユナの座右の銘は“これもまた通り過ぎるだろう”であります。この言葉はユダヤ経典の注解書である『ミドラーシュ』の「ダビデ王の指輪」に登場する名言であります。

 

 ダビデ王は宮中の金細工人を呼び寄せて命令をしました。“私の為に美しい指輪を作りなさい。戦争に大勝利を治めた時にも高慢に至らず、私が大きな絶望によって落胆している時にも決して挫折しないで、自ら勇気と希望を与えられる文句を刻み付けなさい。” 金細工人は美しい指輪は作ったものの刻み込む文句がいくら考えても思い浮かばなかったのでソロモン王子に知恵を求めました。そして、教えて貰った文句がこの言葉でした。

 

 金ユナが誰よりも優れた業績を残した時にも高慢に至らず、負傷によって苦しんでいた時にも忍びつつ乗り越えられたことはこの言葉による励ましだったかも知れません。人間は成功を治めると高ぶり易いし、失敗してしまうと挫折し易いです。しかし、この世の喜びも悲しみも全てがあの世に行くための準備過程に過ぎないことが分かると、一喜一憂しないはずでしょう。何故ならば、私たちの国籍は天にあるからです。

NO 102(2021年3月21日)

 

 

 

【いのちの本

 

 韓国で南無妙法蓮華経の信徒の中でお笑いさんとして人気があるチョ・ヘリョンさんがいました。チョさんは自分が信じている宗教が韓国で社会的な問題になった時にその記事を報じた放送局に行って強く抗議をする程、熱心な信徒でした。その映像を見たことがあった私は彼女に対して良くない印象を持っていました。

 

 しかし、そのチョさんが7年前にクリスチャンになりました。そして彼女は色んな教会と基督教番組で証ししながら熱心に福音を伝える者に変わりました。チョさんの熱心によって多くの方々がイエス様を受け入れました。とても頑固だった彼女が変わった切っ掛けは救われてほしい人々の名前を書いた「いのちの本」を作って何十年間も毎日祈っていたお笑い先輩の李・ソンミさんの諦めない祈りのお陰でした。それを知って最初は猛反発したチョさんも李さんに倣って自分も数百名の名前を書いた「いのちの本」を作って毎日祈っているそうです。その結果、チョさんに負けない程、頑固な彼女のお母さんも最近クリスチャンになったそうです。私も「いのちの本」を作りました。

NO 101(2021年3月14日)

 

 

 

【日本宣教

 

 2021年10月は私が属している「日本福音宣教会(JEM:Japan Evangelical Mission)」が創設30周年を迎えます。宣教会として30年という歴史は長い年月とは言えませんが、韓国の宣教団体として日本という国だけに宣教していることとしては珍しいことです。韓国の数百を超える宣教団体の中で、ある特定の国だけに宣教している宣教会は珍しく、私が知る限り日本と北朝鮮くらいでしょう。

 

 北朝鮮は韓国人にとって同じ民族ですから当たり前ですが、日本にだけ宣教している宣教団体が私が知っているだけでも四つもあることから韓国人クリスチャンたちが日本に対する宣教の想いは格別であると考えられます。それは神様から与えられた特別な愛による使命としか説明できません。

 

 日本は「宣教師の墓場」とも言われる程、宣教の実が実らない宣教の奥地であり、結構厳しい宣教地であります。それは日本に住んでいる私たちクリスチャンがもうちょっと頑張って宣教の働きに励む必要があることを示していることでしょう。

NO 100(2021年3月7日)

 

 

 

【メメント・モリ

 

 コーヒー・カプチーノの語源は帽子、頭巾、ガウンの意味のイタリア語のCappucioに由来するそうです。カプチン修道会の修道士たちは頭巾付きのワンピースのガウンを着ていました。その姿が濃い褐色のコーヒーの上に牛乳の泡をのせたのと似ていることからカプチーノという名のコーヒーとなったそうです。

 

 カプチン修道会はアッシジのフランチェスコの教えに徹底して従う為に世と決別して祈りと困窮と謙遜を目指しました。修道士たちはお互いに会うとメメント・モリ(ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を忘るなかれ」という意味)と言い挨拶を交わしました。

 

 この世の生だけを求めて生きる者はいくら歳を取っても自分しか分らない未熟な人生を生きるようになります。しかし、人間は必ず死ぬ存在であり、自分の死は近いと認識して生きる者は死後の新しい人生を準備するようになります。人間のこの世の人生はあの世の人生を準備する旅に過ぎないことを私たちは覚えなければなりません。メメント・モリ。

NO 99(2021年2月28日)

 

 

 

【コロナとカーニバル

 

 コロナのパンデミックによって今年のカーニバルは中止となりました。謝肉祭とも言われるカーニバルはヨーロッパと南米などで毎年2月頃に開かれる大規模の祭りを言います。イエス・キリストが十字架に付けられ復活したことを記念する復活祭までの(日曜日を除く)40日前からの期間を教会は四旬節として決め、キリストの苦難に同参する為に断食と自己節制、そして悔い改める時としていました。特に禁肉の期間としたため、四旬節が始まる前には思い存分遊び食べまくろうという思いからカーニバルが始まりました。

 

 節制する前に放縦に走ろうとすること、それが罪性ある人間の欲望であり、著しく表に現れたのがカーニバルであります。この祝祭が終わると沢山の私生児が生まれるそうです。

 

 今年はコロナ禍によって全世界が自粛ムードです。自ら節制することを失った人々にコロナを通して自粛させていることは終末の時代に生きている人間に教える神様のメッセージではないかと感じられます。

NO 98(2021年2月21日)

 

 

 

【祈りによる恵み

 

 同じ宣教区の先生からメールが届いていました。

 末っ子恕隣(ソリン)の健康状況が如何だろうか、ライフ・ラインの読者の方が知りたがっているというメールでした。

 

 去年2020年1月ライフ・ラインという千葉テレビで放送されるキリスト教番組の月刊誌の巻頭言を書いたことがありました。「私たちの人生の中で試練があっても神様の導きを信じて歩みましょう」の様な内容の文を載せたことを思い出しました。その文では当時末っ子の恕隣が激しい精髄側彎症によってコルセットを着用している話をしました。私たち夫婦は当惑と残念な思いの中でも一度も神様に不満を抱いたり、心配をしたことはありませんでした。正しい方である神様に信頼していたからでした。その話をしながら奨めた文を読んだある読者の方が恕隣の為にずっと1年間祈ってくださったということ、そして現在の容態は如何であるのか知りたがっているとの連絡でした。

 

 心の深いところから感動と感謝が溢れました。全く知らない、顔も分からない私たちの為に長い間祈ってくださっている方がいらっしゃることを初めて知りました。そして、悟りました。私のような未熟で足りない者が牧師として顔を上げて働いていることは後ろであの方の様なお祈りの応援があるからであることを。

NO 97(2021年2月14日)

 

 

 

【神様のユーモアセンス

 

 聖書は旧約39巻、新約27巻で全部66巻であります。また旧約聖書は全部929章があり、新約聖書は全部260章で総1,189章があります。また旧約聖書は全部23,026節で新約聖書は全部7,957節で総30,983節があります。

 

 聖書の最も真ん中の章は詩篇118篇で前後に594章ずつがあります。

 聖書の最も真ん中の節は詩篇118篇8節で前後に15,491節ずつがあり、その節の内容は「主に身を避けることは人に信頼するよりも良い。」で、聖書を読む者に最も必要な姿勢を教えていることとして素晴らしい内容ではないかと思います。

 

 また面白いのは聖書の最も短い章は聖書の真ん中の章の一つ前の章である詩篇117章としてたった2節しかありません。そして、聖書の中で最も長い章は真ん中の章の一つ後の章である詩篇119章として全体は176節であり、その理由が各節は八節ずつヘブル語のアルファベット22文字の順に始まるからです。

 

 そういう点から見て、私たちが信じている神様は徹底的な方でありながらユーモアセンスが豊かな方に違いありません。

NO 96(2021年2月7日)

 

 

 

【愛を分かち合うこと

 

 交通事故によって両手の全指の先を切り取り、顔を始め全身の70%が酷いやけど痕に覆われていながらも信仰によって日々笑顔で感謝しながら生きているクリスチャンの姉妹イ・ジソンさんを皆さんに紹介したことがありました。

 

 彼女は障害を乗り越え、勉強に励み博士号をとって現在は夢であった大学の教授になって働いています。しかし、彼女は火傷で苦しんだ2,30代よりも全てを成就した40代になって「生きることが楽しくなくなった」そうです。

 

 その時、ある切っ掛けで受刑囚の家族を助けるボランティア活動をするようになりました。そして、その働きの中で出会ったある少年から“私たちが初めて会った時は春だったが私たちの間は冬のように冷たかった。季節が過ぎて冬になった今の私たちの間は春のように暖かい”と言われて心より深い感動を受けました。そして、自分が何故人生の虚無感に覆われていたのかと考えてみたら「愛を分かち合うことを忘れていたから」であることが悟られたそうです。

 

 愛を分かち合い、他人に心を分け与えることが私たちの生きる希望となり生きがいとなります。皆さんは愛を分かち合い楽しい日々を過ごしていますか。

NO 95(2021年1月31日)

 

 

 

【寝ているふりをしている子は起こすことが出来ない

 

 子ども救済の活動をしているCompassionの代表が夜、子ども施設に訪問した時の話しです。子どもたちは寝ていないのにお客さんが来たことが分かると寝ているふりをするそうです。おそらくサポーターたちの訪問を受けた経験が多い子ども程、そういうことによく敏感に反応するようです。

 

 子どもたちに喜ばせようとしてプレゼントを持って起こしてやると、本当に寝ている子は目を覚めて起き上がりますが、寝ているふりをしている子は起こすことが出来ないそうです。

 

 その話から学ぶことがありました。私たちの信仰も同じではないかと思いました。神様の御ことばに耳を澄ませて従おうとする態度ではなく、態と心を閉ざしている人がこの世で神の国を味わうことは出来ません。クリスチャンであっても心を頑なにして自分の意志によってイエス・キリストに従わない人が変わり新しい人生を生きることは出来ません。聖霊様の働きがなければ、主の哀れみがなければ無理です。神様の御前で謙り主に立ち返る心にならなければなりません。

NO 94(2021年1月24日)

 

 

 

【偏った宗教的な信念

 

 アイランドには1920-2000年の80年間に亘って約9千名の子どもたちが虐待によって命を失ったと政府が公式に発表しました。アイランドのカトリック教会、又は牧師が運営した未婚母施設で死亡した子供に対する調査によって明らかになったことでしたが、生まれた子供の15%に当たる数値として平均死亡率を多く上回る結果でした。それは未婚母と私生児を罪としたカトリック教会の根本主義的な文化によるものでした。施設にて未婚母たちは抑圧的であり残虐な女性嫌悪的な環境の中で長年間苦しまれました。

 

 こういう様に偏った宗教的な信念が悲惨な結果を招いたことは人類の歴史の中で沢山あるでしょう。その原因は聖書の御ことばが語る意味を正しく知らなかったことを挙げられます。この世を創造された神様と人類の救いの為に十字架の上で死なれたイエス・キリストの愛と御旨を全く理解しなかったことによるものでした。だから私たちは自分の宗教的な信念が偏ってはいないのか疑い確認する必要があると思います。

NO 93(2021年1月17日)

 

 

 

【ジョンイン、ごめんね!

 

 絶対あってはならない犯罪の一つが児童虐待でありますが、韓国で去年10月13日、生後16か月の女の子が養母の虐待によって死亡する事件が起きました。この事件が最近、あるテレビ番組によって知らされて韓国社会は大きな衝撃を受けました。

 

 その主な理由とは子どもを死亡させる程虐待した養父母はどちらも現役牧師の息子、娘であることでした。養父母は良い大学出身で、アメリカ留学の経験があるクリスチャンであることで韓国の基督教界が受けた衝撃は大きなものでした。

 

 私自身も大きな衝撃と悲しさの中で「キリストを信じている者が一体何を求めて生きるべきなのか?」を深く考えさせられました。この事件は韓国の教会の素顔を洗い出させた神様の厳しい訓戒として胸が痛い程です。神の愛と義を求めて生きる人生ではなく、この世の価値だけを求めつつ人々の目を気にして生きるクリスチャンの姿が養父母によって現われたではないかと思います。

 

 残虐な虐待に抵抗さえ出来ず犠牲された小さないのちの名はジョンインです。

NO 92(2021年1月10日)

 

 

 

【神様の熱心

 

 ある宣教師がモンゴルにて移動する為にバスターミナルに行ってバスに乗りました。席は決まっていて出発する前にお巡りさん(?)が人々を全員チェックしました。しかし、時間が経って出発時間なのに運転手さんがバスに乗らなくて外で電話をしていました。どんな電話なのかと聞いたら切符を購入したがまだバスに乗らなかった3人の客に電話をかけてどこにいるのかを聞いていたのです。そして、バスが出発して行先の反対方向に走り、お客さん一人ひとりを全部乗せたそうです。

 

 日本でも他のどの国でも聞いたことが無かった話しでした。この宣教師はこの出来事を通して大きな恵みを受けました。そして、神様も救おうとする私たちを一人も見捨てないで導いてくださる方であることに気づきました。福音を受け入れず、キリストを信じない者を救おうと神様は必死です。先に救われた者を用いて一人でも多くの魂を救う為に主は今も働いておられます。私たちは主の働きに共に用いられる者になりましょう。

NO 91(2021年1月3日)

 

 

 

【正義なる神様

 

 私は神様が愛の方であることがとても好きです。

 

 神様は全知全能なる方であり、この世を創造なさった理由が愛であることが涙が出る程感謝です。独り子のイエス様を十字架の上で死なせる程、私たちを愛された神様のことが大好きです。

 

 しかし、私は愛なる神様よりも好きなことが、神様は正義なる方であることです。不義が蔓延るこの世の中でも正義なる神様によって生きられることは本当に素晴らしいことです。この世の虚しいことを求める人生は結局空しく終わってしまいます。しかし、キリストに従い永遠の価値を求めて生きる人生はきっと栄光に輝きます。

 

 正義なる神様によって私たちの人生は必ず清算されること、それが聖書の約束であります。消えうせる虚しいものを求めて生きると、そこから刈り取るものは何もありません。しかし、信仰によって永遠な価値である魂を救う働きを実践して生きた人生は神様からの素晴らしい賞を頂き主の栄光に加わる栄誉を味わいます。正義なる神様を讃美します。

NO 90(2020年12月27日)

 

 

 

【聖霊の宣教

 

 数年前から中東のムスリムの方々が共通的にイエス・キリストの幻を見てクリスチャンに改宗するニュースが増えているそうです。

 

 クリスチャン殺害を好んでいた、あるIS戦士が夢の中で白い衣を着ている方に“あなたは今、私の民を殺しているのか?”と叱られて、その翌日から体の痛みを感じ、彼が以前から楽しんでいたクリスチャン殺害が出来なくなってしまったそうです。そして殺そうとするあるクリスチャンから“私を殺してから是非読んでほしい”と渡された聖書を読み始めると、ある夜イエス様が現れて“私について来なさい”と言われて改宗したそうです。

 

 またある地域では村全体の人々が同じ日に、同じ夢の中でイエス様を見て、村全体が改宗したケースもありました。最近はムスリムへの宣教が困難な時代だからこそ神様が直接働いているようです。今が本当に終末の時代であり、主イエス様が再臨なさる日が近づいていることは間違いないです。アーメン。主よ、来てください。

NO 89(2020年12月20日)

 

 

 

【洗礼

 

 洗礼に関して聖書は「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたこと」(ローマ6:3)であると語っていて、洗礼を「主と共に死に、主と共に新たに生まれ変わること」として定義していますが、私は洗礼に関して次の様にも認識しています。

 

 私たちがイエス様を心に信じて受け入れることとはイエス様との婚姻届を提出することであり、法的に夫婦関係になることです。その中で洗礼式は結婚式を行うことを意味します。結婚式を行わなくても結婚届を提出さえすれば紛れもなく夫婦である様に私たちは洗礼を受けなくてもイエス様を信じれば救われます。しかし、夫婦であっても結婚式を行わなかった夫婦は一生何か物足りない気分になるように、洗礼式は私たちがイエス様との立派な夫婦になったことを教会と世に宣布する行為です。来週のクリスマス礼拝には李・恕隣の洗礼式が執り行われる予定です。私たちは神の家族としてその日を共に喜び感謝する日としてお祝いしましょう。

NO 88(2020年12月13日)

 

 

 

【公正と正義

 

 私は聖書の中で最も根本的に流れる基本理念が「公正と正義」であること(アモス5:24)が本当に好きです。やもめと孤児、外国人の様な社会的な弱者への配慮を呼び掛けている神様が大好きで堪りません。公正と正義をなす根本的な精神は神様を恐れる「正直」から始まります。しかし、この世は益々偽りが激しくなり、人面獣心の者が増えていて、嘘をつくことを当たり前の様に考えているようです。

 

 箴言3:32は「主(神様)は…直ぐな人と親しくされるからだ。」と語ります。神様を経験したソロモンはこの箴言を記録した時、正直な者は神様が親しくされることを悟ったようです。そして、「正直な者は神様が親しくされること」は本当に当然なことかも知れません。神様は真実なお方だからです。ここで言う「親しくされる」とはヘブル語の「ソド」という単語で、「自分を透明に現す」という意味です。“正直に生きると、神様が私の前に透明に現れてくださるわけです!ハレルヤ!”それはとても興奮されることではないでしょうか。

NO 87(2020年12月6日)

 

 

 

 

【熱力学

 

 本日学ぶ創造科学特別講座は「熱力学」であり、その内容は「無から有を創造」された神様の御業を物理学的な立場から考える時間となります。神様はこの世を無から創造なさいました。それは全能なる神様には簡単なことでありますが、無能な私たちにとっては想像も出来ない御業です。神様は私たちに知恵と知識の賜物を与えてくださり、その不思議な原理が理解できる能力をくださいました。だから私たちは創造の奥義を物理学の法則から学べます。五餅二魚の奇跡の原理も「熱力学」を通して理解できます。今年の1年間、創造科学特別講座に参加された方々はおそらく目から鱗が落ちる経験をなさったでしょう。この講座を通して私たちは自然界を統べ治める神様の痕跡を探り、私たちが信じている三位一体となる神様は全知全能な創造主なる真の神様であることの確信を得たと思います。神様は聖書の中だけに存在する方ではなく私たちの人生の中で共に生きておられる方だからです。

NO 86(2020年11月29日)

 

 

 

【進化論と愛

 

 創造科学特別講座の終わりがいよいよ近づいています。11月29日「熱力学」と12月27日「東方博士とメシアの星」を最後に全部で14回の創造科学シリーズの講座が幕を閉じます。私たちは創造科学の講座を通して、今まで私たちが学校から学んでいた進化論がどれ程矛盾だらけであるのか、そして致命的な論理的矛盾を持っていることを科学的に考えてみました。そして聖書に基づく創造論が不思議にどれ程科学的かつ論理的な主張であるのかも確認しました。聖書の真実性を聖書ではなく、客観的な立場から科学的に考えてみたことはとても有意義だったと思います。私は「愛」ということばを黙想するだけでも人間が無機物から偶然に生成され進化された存在とは到底同意出来ません。何故ならば、愛というのは「利他」に基づくものであり、進化論とは徹底的に「利己」に基づく理論だからです。つまり進化によって生成された人間(勿論そんなはずがないですが…)が愛することは進化論的な思想では絶対無理です。「愛すること」とは、偶然ではなく計画によって神様のかたちとして造られた存在が創造主の品性に倣って行う超自然的な行いだからです。

NO 85(2020年11月22日)

 

 

 

【聖なることとは

 

 「聖なる」ということばはキリスト者たちが最も意味を誤解している聖書の御ことばであると思います。神様は「私が聖だからあなたがたも聖なる者とならなければならない」(レビ11:45)と語られました。しかし、私たちが聖なることの意味を分からなければ聖なる者になることは出来ないはずです。多くの方々は聖なることを“罪を犯さないこと”として理解しています。しかし、それは聖なる者の生き方を意味することで聖書が語る聖なることではありません。聖なる者に関する御ことばはレビ記の禁じられた食べ物の律法の中で記録されていて、その深い意味があります。神様の律法は選ばれたイスラエル民が神の民(選民)として、この世の民とは違う生き方を教える人生の道標であります。そしてそれは「この世と分離された人生」を意味することで、「この世の人々と違う価値観(世界観)によって生きること」を言います。イエス・キリストの故に永遠な価値を得た者が生きるべき人生、神様から認められ聖書の基準によって生きる人生がその聖なる人生です。

NO 84(2020年11月15日)

 

 

 

【母の愛・神様の愛

 

 11月2日、韓国で有名なお笑い芸人のパク・ジソンさんが自殺をしたというニュースがありました。彼女は酷い太陽光アレルギーによって化粧も出来ない程の苦しみの中でも明るい性格で多くの方々に愛されていた芸能人でした。何方かが自殺を図ったニュースを見ることは心が痛みますが、今回特に心が痛んだ理由は彼女が命を落とす時に娘を一人で送ることは出来ないという彼女のお母さんのメモが発見され同伴自殺をした事でした。普段彼女と冗談まじりのメッセージをよく交わしていた仲良しのお母さんの深い愛が感じられ、私は心の深いところから残念な思いと悲しさでいっぱいでした。

 

 そのお母さんの愛を感じながら罪人である我々の為に独り子であるイエス・キリストをこの世に送られ十字架の上で死なせた神様の愛の深さを考えました。私たちの為に自分の息子さえ惜しまず死なせた神様の愛は、どんな愛でしょうか。測り知れない愛でしょう。神様は私たちに対して真剣ですが、皆さんは如何でしょうか。

NO 83(2020年11月8日)

 

 

 

【死の法則

 

 私たちが生きる人生の中で誰も避けられない法則があります。それは「死の法則」です。人間の誰もが死を迎えることは変わらない真実です。私たちは他人の死と葬式を通して人間は永遠に生きる存在ではないことを覚えます。そして死後には裁きがありこの世の人生は必ず精算されることを学びます。本日は「葬儀に対する要望」を皆さんに配布しました。私たちの葬式はこの世の通過儀礼の中でも最後を閉める節目となります。葬式をクリスチャンとして教会と家族から感謝と祝されながら執り行うことは最後の祝福となるでしょう。三浦綾子が葬式を「人生の最後の大仕事」と語ったように、この世を去る時を考え自分の人生を思い巡らして、残された方々への大事なメッセージと希望を残して頂ければと思います。クリスチャンは死を迎える時までキリストを伝え福音に生きる者として生きなければなりません。それこそが救われた者の最後の証しだからです。

NO 82(2020年11月1日)

 

 

 

【愛の感動

 

 1950年朝鮮戦争が勃発した時、トルコ軍として参戦したシューレイマンは夜の偵察の時、民間人の死体の中から泣いていた5歳の女の子を発見します。可哀想と思った彼はその夜光っていた月を見て少女の名前をアイラ(月)と名付けて戦争中、アイラを父として養います。親を失い失語症だったアイラは彼の愛によって徐々に回復しました。しかし、1年半後帰国命令が下されると彼はアイラを鞄に入れて船に乗ろうとしますが発覚されてしまい、結局二人は生離別せざるを得ませんでした。“必ず戻ってくる”と約束したもののその願いは叶わず、まだ戦争中であった韓国でアイラという少女を探すことは難しく、二人はお互いを慕い求めても会えることは出来ませんでした。そして60年後、その事情が知らされ、ある番組の企画によって二人は60年ぶりに再会しました。そして二人の物語はトルコで映画となりました。偶然そのドキュメンタリーを見た私は感動して涙を流しました。神様はイエス・キリストの故に私たちを養子として、限りない愛を注いでくださいました。人は感動を受けると変わります。そして人々に感動を与えることは愛しかありません。

NO 81(2020年10月25日)

 

 

 

【館山教会附属保育園

 

 先週と今週は保育園の職員面談が行われています。館山教会附属保育園は70周年の長い歴史をもっていてそれが誇りですが教会が何故、附属保育園を運営しているのかに対して明確な目的とビジョンを持つ必要があります。その目的とは「福音の宣教」の為です。伝道をしない教会は生きていても死んだ教会であります。教会の成すべき働きは弟子訓練と魂救いであるからです。キリスト教はイエス・キリストによって与えられた救いの機会を弛みなく世に宣べ伝えなければなりません。人々のいのちを救うために働かなければなりません。それが救われた私たちに与えられた使命です。だから保育園が宣教の拡張に用いられますように私たちは祈りながら応援しましょう。私は夢を見ています。保育園の職員の方々が皆イエス・キリストによって救われ、神様の御ことばによって子どもたちを育むことを。そして、子どもたちとその親が、保育園に関わる方々が福音によっていのちを得ることを。

アドナイ・イルエ!

NO 80(2020年10月18日)

 

 

 

【霊的な怠惰

 

 太平洋南西部に大島の5分の1程の小さい島国のナウル共和国があります。かつてこの国は、希土類元素のリン鉱石の発見により栄えました。リン鉱石の高騰により1980年代には太平洋地域で最も高い生活水準を享受し、公共料金や税金は無料という生活を謳歌していました。漁船と農地が消え国民は皆仕事を辞め高級車に乗りまくり自家用飛行機に乗って海外へショッピングに行く程でした。その結果、国民の90%が肥満と糖尿で死亡率1位の国となりました。しかし、2003年リン鉱石の枯渇により経済は破綻状態となり、国土は乱開発によって農業が出来ない程荒廃となりました。ナウルを見ながら私たちの霊的な状態も同じであることに気づきます。この世の価値観に溺れて生きる人生はクリスチャンであっても霊的な肥満、糖尿の状態となります。危機感を感じた時にはもう回復が出来なくなるのです。私たちはこの地に永遠に生きる者ではなく限られた時に使命を頂き、天国を目指して生きる者なのです。

NO 79(2020年10月11日)

 

 

 

【言葉の意味

 

 私たちクリスチャンは聖書が語る言葉、もしくは私たちが普段何気なく使っている言葉に対して意味も分からず使ったり、意味も分からず聞いたりする傾向があります。例えばヨハネ4:24の様な「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」の御ことばも御霊と真理によって礼拝することは何であるのかを知らないで理解しているかの様に思います。しかし、このような姿勢はとても危険です。御霊によって礼拝することは神様と生き生きとした交わりをすることであり、真理によって礼拝することは真理の中に入ることを意味することで、真理が私の人生を支配させることを意味します。常に神様と交わりながら真理が毎日を導くように生きることが神様がもとめられる礼拝であります。真実な信仰生活とは教理ではなく、御ことばによって日々変わる人生であり、それが神様が求められる人生であります。

NO 78(2020年10月4日)

 

 

 

【主に委ねる人生

 

 四十三歳という遅い歳に献身した私は自分の中で決めたことがありました。それは「この地に自分の名義のものは残さないことで、車でも家でも所有しないこと」でした(何故ならば、その理由は天国で味わる期待があまりにも大きいからでした)。通帳さえも持ちたくない程の思いでしたが、さすが現代ではそれは無理でした。家は神学校の家族寮に住むことで解決され、車のことも簡単に解決されました。当時、姉の会社で働いていましたが、会社を辞めても自分が乗っていた会社名義の車に乗ってもいいと言われ(その会社の取締役としての株を持っていた為)、お陰様で車検も保険もその会社の負担で未だに乗ることが出来ました。何故、神様は私をこんなに祝福してくださるのかと思うと、ふと信徒の時に宣教師が必要な中古車購入代金を献金したことが思い出されました。当時の生活のなかで無理しながらも献金したことを神様は忘れませんでした。このようなことが重なる中で私は学びました。「私たちに必要なものは時に叶って父なる神様が全部与えてくださる!下さらなければ必要なものではない。」そのような経験によって今も毎日のように生きておられる神様を体験しています。

NO 77(2020年9月27日)

 

 

 

【神様の心

 

 ある人に二人の息子がいました。弟は早く親離れしたくてお父さんに財産を早く分けて欲しいと言い、結局お父さんは息子たちに財産を分配してあげました。弟はさっそく貰ったお金を自分の快楽の為に全部使いきってしまいました。後に弟は反省して父の許に帰って来ますが、兄はそれを喜びませんでした。この話はルカの福音書15:11-32に載っている有名な「放蕩の息子」の喩え話です。この物語の表は弟が放蕩の息子のように見えますが、実は兄がそうであることを語っています。弟の息子が帰ってくることをずっと待ち続けていたお父さんとの再会のシーンがとても感動となりますが、ここで疑問が生じます。お父さんは息子が財産を蕩尽してしまうことを感じていたかも知れません。なのに何故、お父さんは待ちに待った息子を自ら探しに行かなかったでしょうか。

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成人となった弟の決断を尊重した為?

家出をしたのだからもう息子とは関係がないと思ったから?

 

違います。その理由は…

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「兄が弟を探しに行くことを期待していたから」でした。

 

それがこの物語に隠された最も肝心な奥義であります。そして、それがお父さんが息子二人を救う方法でした。兄は既に救われた者(イスラエル人・クリスチャン)を指しています。弟は福音を拒んでいる者(異邦人・未信者)を語っています。兄となるクリスチャンの私たちは神様から離れた弟を探すことが主のみ心であることを深く悟るべきではありませんか。

NO 76(2020年9月20日)

 

 

 

【死にたいと思う時

 

 私たちは人生の中で色んな苦しみによって、時には「早く死にたい」と思う時があります。罪人である私たちは人生の中で病弱、貧困、孤独、失敗等の様々な苦しみに遭遇し、耐えきれなく思う時があるから、クリスチャンでさえそういう考えをする時もあります。カルメル山にて大勝利を得た預言者エリヤさえも王妃イゼベルの脅迫によって死にたい程の絶望感に陥りました。聖書はエゼキエル書16:6を通して私たちが「生きる」ことを励ましています。人々が死にたいと思う理由は人生の苦しみよりも、生きる意味を失ったことがその原因となります。それは自分の人生は自分のものであるという認識によるものです。聖書は私たちの人生は私たちのものではないと語っています。Ⅰコリント6:19,20では私たちの人生はキリスト・イエス様の十字架の贖いという代価を払って買い取られたと語っています。だから私たちの人生は神様の栄光を現す為に、キリストの福音を未信者に伝えながら生きる明確な使命が与えられていることを忘れてはなりません。

NO 75(2020年9月13日)

 

 

 

【霊的戦争

 

 ある青年がハーバード大学博士号を取った後、誓願の通りにモンゴルの宣教師となりモンゴル国際大学の教授を務めました。しかし、モンゴルの生活になかなか馴染むことが出来ずアメリカでの生活が懐かしくなりました。ある日、授業が終わって学生たちから質問を受けた後、講壇に戻ると大事なノートパソコンがなくなっていました。‘お前たちの為に全てを諦めてここに来たのに…’という裏切られた気分になり、アメリカへ帰りたくなりました。“パソコンが取り戻されますように”と祈っていたら、祈りの中で神様の御声が聞こえてきました。“あなたのパソコン、私にくれないのか?”、“主よ。私の財産目録第1号ですよ。”、“私にくれないのか。” 神様の御声を聞いて、‘主よ。命さえもあなたに捧げます。’と祈っていたことが思い出されました。“わかりました。主に捧げます。” 祈り後、宣教師は平常心を取り戻すことが出来て働き続けました。そして後になって、それが「霊的戦争」であることが悟られました。サタンは私たちの心が乱され主から頂いた使命を諦め、失敗することを望んでいます。

NO 74(2020年9月6日)

 

 

 

【Felebration

 

 米国にある長老の娘さんが大学入学試験にFの成績を貰いました。長老は信じられない程のショックを受けてそれが心配だったのですが、礼拝の時に聖霊によって悟りが与えられました。長老はいつも子供に“あなたは神様の子だ。主に委ねれば大丈夫だ。”と言いながらも実は“あなたは私の娘だ。Aを取らなければならない。良い大学に入らなければならない”とプレッシャーを与えていたことが分かりました。長老は娘に言いました。“ごめんね。お父さんとお母さんは、あなたに嘘をついていた。言っている通りに行わなかった。本当に悪かった”と謝りました。そして、その日にFelebrationをしました。成績をC以上を取ったらCelebration(祝賀)ですが、Fを取ってしまったからFelebrationだと言いました。娘さんは実はクラスメイト全員がカンニングをする為に紙を回している時にクリスチャンとしてカンニングをしないことを決め試験に臨んだそうです。後に娘さんは「Felebration」というエッセイを書いて他の良い大学に見事に合格したそうです。キリスト者はこの世と違う価値観によって生きる者です。

NO 73(2020年8月30日)

 

 

 

【神の御旨

 

 クリスチャンである私たちがこの世の中で正しく生きる為には先ず聖書の教えを知ることが最も優先されなければなりません。イエス様を信じているにも関わらず聖書が語る教えを正しく知って従っているクリスチャンは残念ながら多くありません。聖書全体に於いて語る神様の中心となる教えはイザヤ56:1とアモス5:24であります。それは「公正を守り、正義を行う」ことです。この御ことばから考えると、神様の望みはこの世の全ての人々が共に生きることです。そして皆が共に生きる為に公正なる社会を作って社会的に弱い方々に神様の愛を注ぐことです。そして正義を水のように、谷川のように流れさせることです。それが神様から愛されている私たちがこの世に示す正しい生き方でしょう。社会的に弱い立場にいる方々に主の愛を注ぐこと、そして未信者にキリストの福音を述べ伝えること、それこそが私たちがこの世の中で成すべき最も崇高なるお働きであり生きる意味であります。

NO 72(2020年8月23日)

 

 

 

【今を生きる

 

 私の母は物をとても大事にして生きていて、それがある程度を超える程でした。綺麗なお皿セットを貰った時も使うことが勿体ないと思い何十年間も棚に保管しておいて結局使えなくなってしまったこともありました。良い物を貰ったら直ぐ使えばそれによる喜びと楽しさがあるはずなのにその機会を失ってしまったことはとても残念でした。母の様に未来のことばかり心配して今を楽しむことを失った人々が多いでしょう。この世がそれを要求しているからです。しかし、私たちは今を生きなければなりません。未来も大事ですが今愛すべき家族を愛し、今愛すべき友人を愛し、今愛すべき知り合いをもっと愛しなければなりません。神様と教会の為にも今献金をして、今奉仕をして、今仕えて、今献身しなければなりません。今を正しく生きない人に良い未来は与えられません。今を正しく生きないでよい未来を期待することは賭博です。神様から与えられた今を感謝し聖書が語る公正と義なる世をつくりあげる為に今努力すべきです。

NO 71(2020年8月16日)

 

 

 

【危機の時に現れる

 

 コロナ禍によって未だに多くの教会が礼拝を始め諸集会などをオンライン映像を通して行っています。また多くの教会がこの様な状況に慣れず慌てていて、それは教会が想定していなかったことがその原因として挙げられるでしょう。オンライン映像礼拝に慣れた信徒たちがコロナ終息後、通常の礼拝に戻るだろうかに対して、ある研究によるとクリスチャンの人口は半分にまで減る恐れがあると懸念されています。しかし、「家の教会」はこの様な危機の中でも健全な働きを全うしていて、牧場の中で牧員のお互いが支え合っている報告が出されています。聖書的な教会、神様が望む教会の凄さが危機の時により輝いていることが証明されていることでしょう。館山教会は高齢者が中心の教会ですのでオンライン映像の礼拝などを用いることは事実上無理です。だから私たちは主によって全てに於いて守られますように祈るしかありません。アドナイ・イルエ

NO 70(2020年8月9日)

 

 

 

【神を知る知識

 

 先週、ある女性から電話がありまして、“神様は本当にいますか?”との質問をしてきました。その説明をする為に1時間45分間も話してしまいました。彼女は自分は南無妙法蓮華経の信徒であるけど、昔は10年間クリスチャンだったが今はこの宗教が本物であると確信して、今は最高に幸せであると言いました。‘私を布教するために電話したのか’とふと思いましたが、それではなかったようでした。彼女はある程度、聖書の知識もあったし自分なりに求道の為に努力を尽くしたようにも感じられました。しかし、彼女は今はイエス・キリストへの信仰を捨てて聖書に対して誤解を持っていることを聞いて残念で仕方なく、もどかしさを感じました。神様の御ことばを正しく理解する知識がなければ彼女の様に聖書を誤解してしまう恐れがあります。この世が変わっても主イエス・キリスト以外は人間が救われる道はありません(使徒4:12)。聖霊の働きがない限り彼女に福音を理解させることは出来ませんでした。結局電話で彼女を納得させることは無理でした。

NO 69(2020年8月2日)

 

 

 

【人生の三つの苦しみ

 

 聞いた話です。韓国人の作家、李ドンフンは次のような話しをしました。“人生を苦しませる三つのことがある。一つは過去を後悔すること、二つは未来を心配すること、三つは現在を比較することだ。”人生を見抜く慧眼を感じる話しであると思います。世の中には本当に過去を後悔しつつ、未来を心配しつつ、現在を比較しつつ不安と不幸の中で生きる人々がとても多いようです。しかし、クリスチャンになると、「過去」は再解釈されて不公平な人生だと思い込んで、苦しんでいた罪人が人生の中で導く神様の不思議なご計画を悟り、後悔は恵みに変わります。不安と心配と悩みであった「未来」は希望と期待として変わります。他人と比較しながら不満と不幸として感じていた「現在」は感謝が溢れる小さな天国として変わり、賛美と喜びに満たされるのです。それがイエス・キリストによって救われ神様の子供となった者が生きる平安を味わう新しい人生です。

NO 68(2020年7月26日)

 

 

 

【キリスト者の別れ

 

 キリスト者の出会いは神様による祝福であり、私たちは兄弟姉妹たちとの出会いによって訓練され、祝福され、成長するものです。だから私を助けてくれる方との出会いも、私を苦しめる出会いによって私が成長されることも全てが主なる神様の恵みと祝福であります。だから私たちは出会いを大事にする必要があります。しかし、キリスト者は出会いよりも大切なのが別れです。出会いを大事にする人であっても別れを大切にする人は多くありません。私たちは別れる時には必ずお互いを祝福し合う関係として離れなければなりません。神の家族として励まし合い祝福の祈りによって見送らなければなりません。それがキリストによって本当に救われた者のあるべき姿です。全てが態度という言葉に表すことが出来ます。私たちは救われた者として、また今救われている者として、そして救いを完成する者として御国で再会する者としての相応しい態度を見せましょう。

NO 67(2020年7月19日)

 

 

 

【小さい関心が生んだ奇跡

 

 アメリカに朝からお客たちがドーナツを箱ごと買い占め超スピードで売り切れるドーナツ屋があります。お客たちがその様に買う理由はその店で売っているドーナツがアメリカNO1のドーナツだからではなく、店の主人を早く退勤させる為でした。カンボジア出身のツァンさんの夫婦はアメリカに移住して30年間以上ドーナツを誠実に売っていて町の皆から愛されていました。しかし、最近奥さんが重い病気によって店に出勤することが出来なくなりツァンさんの顔色は益々暗くなってしまいました。ドーナツが全部売り切れるまで妻に会いに行けないツァンさんの事情を知った常連客たちはSNS上で出来る限り朝から、箱ごと購入するように呼びかけました。その結果、朝10時半に完売された時もありました。お客さんたちの小さな関心がその夫婦に奇跡を与えました。この世の人々もそうであればクリスチャンである私たちがお互いにもっと関心を持って愛し合うと大きな奇跡を生み出すはずでしょう。

NO 66(2020年7月12日)

 

 

 

【人生の基準

 

 皆さんは人生の中でどのような基準を持って生きていますか。何かを決めたりする時の基準はただ自分の判断によるのですか。人生の基準が神様(の御ことば)である人は人生を生きる時、どんなことがあってもぶれることはありません。誰もが幸せを求めながら生きているのですが、人間は人生の中で様々な苦しみに遭遇するものです。この世は神様が定めた基準ではなく新しい基準を立てようとしています。同性愛、同性結婚が認められていることもそれです。ローマ1:26-32ではそういう罪を犯すことは死に値するもの(救われず地獄に落ちる罪)として厳しく警告しています。神様が人生の基準となって生きる者はこの世の価値観とトレンドがどの様に変わったとしても揺れ動かない信仰者として生きることが出来ます。

NO 65(2020年7月5日)

 

 

 

【牧場の集いの再開に於いて

 

 コロナ禍による影響の中でも館山教会が礼拝と祈り会を持続していたことは神様の御恵みであります。しかし、残念ながら私たちは緊急事態宣言後、4月から「草原の集い」と「牧場の集い」、そして「道コースの学び」、諸集会を休みながら自粛しました。家の教会のアイデンティティーとなる3つの軸の一つである「牧場の集い」を休む決断はとても苦しい決定であったと未だに痛感しています。緊急事態宣言が解除されても未だにコロナの脅威はまだまだ続いています。再開する「牧場の集い」には気を引き締めて必ずマスクを着用して手のアルコール消毒にも気をつけて参加してください。食事の時には静かに食事だけに集中し、祈りと分かち合いの時にはマスクを着用してください。私たちは「神の家族」でありますが、生活の環境はそれぞれ異なっていることを忘れずに、何よりも神様を崇め、主の御恵みを分かち合う「牧場の集い」にしましょう。

NO 64(2020年6月28日)

 

 

 

【御ことばが理解できなくても

 

 ある教会に顔が暗くて無口な女性の新来者が来ました。教会に慣れてから‘毎日斧を持ったご主人に追われる夢で苦しんでいる’と相談されました。ご主人は浮気をしたり彼女に暴力を振ったりする人でした。牧師はルカ9:23の御ことばを与えて、“離婚はできないからご主人が変わるように祈りながら愛してください”と助言をしました。彼女は小さい声で辛うじて“はい”と答えましたが、牧師夫人には“憎んでいるから赦すことも愛することも出来ない”と文句を言いました。しかし、牧師夫人からも“ありのままの心で神様に祈ってください”と言われました。彼女が一年以上を祈り続けると、救われてないご主人が可哀そうに感じられ慰める思いが与えられました。健康も益々回復されました。後にご主人もイエス様を受け入れクリスチャンになり教会の執事となりました。理解できない御ことばにも信じて従う者は必ず奇跡を味わいます。

NO 63(2020年6月21日)

 

 

 

【聖書を読むこととは

 

 プロテスタント福音主義者たちの聖書に対する熱心は中途半端ではないのにインド宣教師出身のイギリス神学者のLesslie Newbiginは“福音主義者たちは聖書を読まない”と言い切りました。彼が言った「聖書を読まない」の意味とは「神様を信じるクリスチャンたちの最も大きな問題は神様を信じないこと」と同じ様な皮肉な表現であります。聖書を熱心に読んでいる人がイエス様の教えに従わないことは聖書を読まないことと同じです。車を見て車だと知ることだけでは車の運転が出来るはずがありません。車に乗らなければ運転方法を学ぶことが出来ないことと同じく聖書の御ことばを真理であると知っているだけでなく、生活の中に実践しながら自分自身を聖書に適用する時にこそ本当に「聖書を読むこと」となります。口先で聖書を読むだけでなく、「人生で聖書を読む」ように生活の中で神様の御ことばに従うクリスチャンになりましょう。

NO 62(2020年6月14日)

 

 

 

【真理の宅配業者

 

 私たちは去年11月頃から【人生で最も大事な三つの質問】に関して3回の公開講座(①「この世に神という存在はいるのか?」、②「どの神が本当の神なのか?」、③「救い主は要るのか?誰なのか?」)を開きまして、今年の2月からは創造科学特別講座を毎月最終の主日に開いて受講しています。多くの方が参加して昼食後の睡魔と闘いながら受講して頂き感謝でした。何人かの方からは大変有益な講座だと称賛されこの講座を準備する私にとってもやりがいを感じています。また水曜祈り会の聖書黙想の時間に恵まれている方も増えていることも感謝です。人生には様々な喜びがありますが、神様の御ことばの悟りはどんな喜びにも負けない程の大きな喜びの一つであります。私は皆さんが“今までこのような教えはなかった”と喜んで頂くと率直に励まされよい気分になりますが、いつもその声に注意しています。その教えは全て自分の創作物ではなく、私はあくまでも真理の知識を配る宅配業者に過ぎないからです。全てが聖霊の教えと恵みであり私たちを愛する神様による祝福です。

NO 61(2020年6月7日)

 

 

 

【空しさと永遠性

 

 イギリスの哲学者のフランシス・ベーコンは「人間はみんな未来の屍である」と言いました。それは全ての人間は死ぬしかない存在であることを語っていることでしょう。人類の歴史の中で変わらない真理の一つは不滅の人生を生きた者はいなく全ての人間は死を迎えたということです。人間が死ぬ存在という事実は人生の虚しさを語ることでもあります。それに対して聖書の伝道者の書では「空しい」と表現しています。「虚しい」でもなく「空しい」と表現していることが印象深いです。「空しい」人生が人間に与えられた全てであれば私たちの人生は無意味そのものに過ぎません。しかし、人間には「永遠性」が与えられています。クリスチャンの人生はこの世のみならず永遠に生きられる御国が待っているからこの「空しい」人生が意味ある人生として生きられるのです。それが神様の神秘的なご計画です。

NO 60(2020年5月31日)

 

 

 

【神様の熱心

 

 私は人生の歩みの中で学校でも教会でも優しい先生には会ったことはあるけれど、人生を導いてくれる良い先生には恵まれていませんでした。しかし、その代わりに沢山の本を通して良い先生に出会うことが出来ました。私の人生に最も良い影響を与えた本と言えば、朴英善(バク・ヨンソン)牧師が書いた『神様の熱心』という本を挙げられます。その本は聖書の救済論「罪人である人間を救う為のキリストのご計画」を神様の熱心という言葉としてまとめていて、その本によって私は聖書を違う観点から見る目が与えられました。人間の救いが人間の努力によるものではなく、神様の切ない熱心によるものであることをその本によって悟られました。私にとってその教えは衝撃的な悟りとなり、創造主なる神様の立場から聖書を見るように導きさせ、聖書に隠された深い奥義を見つけ出せる力となりました。

NO 59(2020年5月24日)

 

 

 

【聖書を読む態度

 

 私たちが聖書のみことばをよく理解する為には何よりも優先されなければならないことが神様の御心を読むことです。そのような態度によって私たちは聖書に隠された奥義を悟ることができます。聖書が示す第一の戒めに関してイエス様は“神を愛すること、隣人を愛すること”として纏めてくださり、これらよりも重要な命令は他にないと語られました。それを別の言葉で変えると「共に生きること」として定義することができます。聖書は最初から最後まで私たちが神様と共に生きて、隣人と共に生きること、それがイエス・キリストによって救われた者たち、選ばれた者たちに求める価値観であることを続けて教えています。私たちは我がままを喜ばない神様の御心を読みつつ、主が喜ばれる「共に生きる」ことによって、この時代の苦難を乗り越える私たちとなるように努力しましょう。そうすればコロナウイルス何か怖くなくなるはずです。

NO 58(2020年5月17日)

 

 

 

【親という尊い役割

 

 母の日を迎え記念礼拝を捧げる喜びに感謝致します。私たちに親という尊い役割を任せてくださった方は神様です。そして、その理由は父となる神様の御心を理解させる為の神様の配慮でしょう。いくら親孝行する子どもであっても親の思いを理解することは出来ません。子どもたちは結婚して自分の子を産んで養う経験によってやっと親の思いが分かるものです。父なる神様の私たちに対する愛の心も私たちが子どもを育てながら頂く(子どもの代わりに自分の命さえも惜しまない)親の思いによって悟られるものです。私たちの為に十字架の上で死なれたイエス様こそが神様の愛の実現であり、その犠牲によって神様は私たちに対する愛をこの世に示されました。母の日を迎えて、お母さんの犠牲とご苦労に感謝しつつ、神様の愛をもう一度深く吟味する私たちとなりますように祝福致します。

NO 57(2020年5月10日)

 

 

 

【記念日

 

 本日の礼拝は子どもの日を記念する礼拝です。私たちは記念日を定めて記念すべき対象に感謝を捧げたりします。母の日はお母さんに、父の日はお父さんに、敬老の日はお年寄りに、子どもの日は子どもに感謝しつつ愛を込めて祝います。しかし、クリスチャンである私たちの記念日に対する思いはこの世の人々と同じものではありません。私たちが感謝する対象をこの世に送ってくださり、神秘的な神様のご計画の中で縁を結んでくださった主に先ず感謝しなければなりません。そしてこの世に送られた目的と使命に相応しく生きているのかを確めることが大事です。神様に対する感謝が優先にならなければ、その記念日は単なる人間の欲の表れ、新しい偶像の表れに過ぎません。子どもが偶像になっている親は溢れる程あります。そのような人々は結局、生ける神を正しく信じることが出来ません。

NO 56(2020年5月3日)

 

 

 

【基本

 

 新型コロナウイルスの世界感染者数は現時点で2百70万人を超え、死亡者は20万人に近づいています。これから人類の生き方はコロナ19の前とはかなり違う新しい生き方に変わるはずです。キリスト者の私たちも今後の礼拝を始め、祈り会などの諸集会の形に関して熟考する時がくるかも知れません。この様に先が見えない時こそ私たちクリスチャンは基本に戻る態度が何よりも大切です。その基本とは天地万物を創造なさり私たちを創られた主なる神様を信じ崇めることです。そうする為に私たちの信仰を確かめ聖書と祈りに集中する知恵と行動が必要です。毎日聖書を読みながら神様に祈りましょう。毎日配られる新聞の匂いを聖書の御ことばを通して嗅ぎましょう。その意味は数千年前に記された神様の御ことばではなく只今私に語られる神様の御声を感じる事です。その次に基本となるのは全能なる神様を慕い求めつつ祈ることです。

NO 55(2020年4月26日)

 

 

 

【分別力

 

 1986年テレビで映ったイギリスの新聞ガーディアンの有名な広告映像があります。その広告の内容は「スキンヘッドの青年が中年の紳士に飛びかかる映像でした。」この映像を見た人々は誰もが“強盗が紳士を攻撃している”と思いました。次に同じ状況を違う角度から撮った映像が流れます。その内容は「紳士の上から落ちるレンガむらを察知した青年が紳士を助ける映像」でした。あることを総合的な観点から見ないで偏った観点から見てしまうと完全に誤判断してしまう恐れを自覚させる広告でした。この広告は言論社のガーディアンにだけ当たることではありません。私たちも新型コロナウイルスに関する情報、聖書の教え、進化論と創造論の理解、政治的な判断等々、この世を生きるクリスチャンとして持つべき正しい姿勢を学ばなければなりません。全てに於いて偏らず論理的な判断をするように、信仰的な判断をするようにしましょう。

NO 54(2020年4月19日)

 

 

 

【イースター礼拝を迎えて

 

 主イエス・キリストの復活を喜び感謝礼拝を捧げる恵みに感謝致します。しかし私たちは主の復活を素直に喜ぶことが出来ない程、世界は新型コロナウイルスの脅威の真っ只中にいます。世界の多くの教会が礼拝を自粛している期間が長引いている中、日本政府は4月6日千葉県を含む7都府県に緊急事態宣言を行いました。またIMFは4月4日「不確実性指数(WPUI)」を発表しました。イギリス128.36、ドイツ44.91、アメリカ43.57、日本42.92、中国40.33、イタリア40.07、スペイン34.03、韓国8.71(数値が高いほど経済的な不確実性が高い)。世界の未来は益々先が見えない状況の中で、日本はアメリカのように感染者が急速に拡大される恐れの中にいます。こういう時に私たちは主に哀れみを求めなければなりません。神様の見守りと助けが館山教会と附属保育園の上にありますように悔い改めつつ祈りましょう。

NO 53(2020年4月12日)

 

 

 

【家の教会の1年間

 

 本日は館山教会が「家の教会」として教会体制を変えて1年となる主日です。私たちは2019年3月24日の礼拝の中で初めて4人の牧者を任命しました。そして4月7日に茂原牧場、東北牧場、仁川牧場の三つの牧場に分けられ、事情がある方を除く14名によって牧場集いを始めました(現在は平均20名出席)。それは2017年11月から4人の予備牧者の方々と毎週集い準備してきた歩みが始まりでした。この1年間、館山教会が1週も欠かさず三つの牧場が毎週素晴らしい集いを持ち続けていることは何より嬉しいことであり感謝することです。館山教会は田舎教会、高齢者教会の弱点を乗り切って世界中の家の教会に新しい希望を与えています。勿論私たちはもっと学んで成長しなければなりませんが、館山教会は存在だけでも多くの教会を励ます教会として主から頂いた使命を全うしたいと切に願っています。

NO 52(2020年4月5日)

 

 

 

【福原絹子姉の思い出

 

 25日水曜日の午後、祈り会を終え、家の郵便ポストの郵便物を確認したところ、届いた郵便物の中に見慣れのハガキが入っていました。それは福原絹子姉からの恵珍(妻)に送るハガキでした。姉は時々ハガキを送ってくださるのですが、そのハガキはいつも綺麗な花の水彩画を描いたものだったので私達の目には慣れていました。家内が26日に入院することを心配されて慰める温かい内容が書かれていました。そのハガキを読んでいる内に一通の電話が鳴りました。受けてみると、福原絹子姉の長女である山本聡子さんでした。“母が亡くなりました。”私はちょっと現実感を失ってしまいました。‘只今、姉妹からのハガキを読んでいるのにどういうこと?’、‘今週の礼拝もお見えだったのに…’

 私たちは今寂しさと悲しさでいっぱいですが、その中でも希望を持てる理由は父なる神様が絹子姉を温かく迎え入れてくださったはずだからです。

NO 51(2020年3月29日)

 

 

 

【共に生きること

 

 キリスト教の最も大きな戒めであり、全ての律法を纏める戒めと言えば、「神様を愛し、隣人を愛すること」であります。それはイエス・キリストが教える私たちがこの世の中で当然に生きなければならない生き方を「(神様と、隣人と)共に生きる人生」として説明出来ます。教会はコロナ19ウイルスの脅威の真っただ中で今後礼拝に関して熟考しなければならない時が来ています。「礼拝をささげると命が脅かされる時には、命を懸けて礼拝を守ることが信仰人の正しい態度です。しかし、礼拝に集うことが刃物になり、他人の命を脅かす時には礼拝を休むことこそが信仰人が取るべき正しい選択であります。」共に生きることを教える聖書の教えと、神様の御心を読むと今後の礼拝をどのように守るべきなのかが分かります。主の見守りと導き、哀れみが世界中の教会の上にありますように祈ります。

NO 50(2020年3月22日)

 

 

 

【神様の警告

 

 最近国連が非常事態宣言を出しました。コロナ19ウイルスのことではありません。前例のないバッタの大発生がその理由でした。2月22日の時点でアフリカで発生されたバッタは中東、インドまで広がり20か国と地域に穀物が荒らされていて中国を脅しているそうです。ケニアは1000億匹以上のバッタによって食糧が食い尽くされて過去70年で最大の被害を受けたそうです。バッタは一日に自重と同じ量の食物を食べ、150kmを移動します。国連の農業食糧機関(FAO)によればこのバッタは6月にかけて現在の500倍に繁殖する概念があると言われています。かつてエジプトに下った10の災いの一つであるバッタによる災害は新型コロナウイルスのような疫病と共に黙示録に預言される終末の徴でもあります。このような災いは今の時代が終末の時代であることを直ぐ忘れてしまう私たちに与える神様の警告ではないでしょうか。コラムデオ

NO 49(2020年3月15日)

 

 

 

【礼拝の祝福

 

 礼拝は私たちが命を懸けて守るべき大原則の一つであり、神様が教会に与えてくださった大いなる祝福の一つでもあります。教会は戦争の中でも礼拝を休んだことはありません。しかし、コロナ19ウイルスの拡散の状況が礼拝を守ることを妨げています。只今の状況は衝撃的なことに違いありません。今日の状況はもしかして神様が礼拝をささげない様にさせる懲罰の意味かも知れません。我々が今までどれ程礼拝を軽んじていたのかを悔い改めさせるために、悟らせる神様の御旨かも知れません。今まで私たちがどの様な態度で礼拝に臨んでいたのかを深く省みるようにチャンスを与えてくださることかも知れません。イエス・キリストを頭とする主の教会である私たちはこの時期を神様の御前で謙り悔い改める時として自粛しながら礼拝は私たちに与えられた特権であることを感謝しましょう。

NO 48(2020年3月8日)

 

 

 

【信仰と盲信

 

 正しい信仰と盲信の差は何でしょうか。最近、新型コロナ19ウイルスの影響で集会を休む教会が増えていて、主日礼拝も暫く休んだり映像礼拝を捧げる教会も登場しました。日本同盟基督教団も今年度の総会日程を2日間から1日に短縮して開催することにして、各々教会が自律的に対応を熟慮するように勧めています。館山教会も主日礼拝に関してどうすべきなのかを考える時が来るかもしれません。しかし、「そういうことは信仰が足りないことだ」、「戦争の時にも礼拝を休んだことが無かったのに」という心配の声もあります。礼拝に関しては「命を掛けて捧げるべきである」と常に語っていた私は館山教会がどうすべきなのかに悩む程に最近の状況は良くありません。しかし、神様は私たちに正しい判断をするように聖霊によって導いてくださっています。只今は感染の成り行きを見ながら今後のことを決めたいと思いますが、全てにおいて主の助けを期待しつつ祈ることが第一であります。コラムデオ。

NO 47(2020年3月1日)

 

 

 

【新型コロナウィルスと神様の怒り

 

 新型コロナウィルス拡散の発症地とされている中国の武漢は人口一千万人を超える大都市として、発展と共にキリスト教会がリバイバルしていました。ある中国宣教師によると、武漢は昨年、一昨年と続いた中国共産党の宗教政策の試験地に指定され宗教施設、特に成長したキリスト教教会への粛清が最も顕著な地域の一つでした。コラムデオドットコムの記事では教会堂の取り壊し、聖書の焼却、十字架の塔を倒し、礼拝堂に監視カメラを設置し、中国国旗と総書記の肖像を掲げ、礼拝時間に中国共産党のPRを割り当て、教会集会を封鎖、多くの宣教師たちを追放し、教会指導者たちを収監して、武漢だけで48の教会が強制閉鎖されたと記録しています。今回の新型コロナウイルスによって宗教規制の実行最高委の管理者が死亡したこと、そして拡散は教会迫害による神様の御怒りであると私は強く信じています。神様の哀れみを祈りましょう。

NO 46(2020年2月23日)

 

 

 

【神の家族

 

 ドイツ語で「シャデンプロイデ(Schadenfreude)」という言葉があります。日本語で「有害な喜び」または「邪悪な楽しみ」と訳することが出来る言葉です。その意味は“他人に不幸が訪れた時に喜ぶ心”を言います。スポーツ選手がライバルの負傷を喜ぶ心、自分より衰えていた友が大手企業に就職した時の悔しさ、その友がくびになった時に感じる嬉しさ等々、他人の不幸を喜ぶ心がそれです。哲学者のアルトゥル・ショーペンハウアーは“人間が持つ最も邪悪な感情”がシャデンプロイデだと言いました。何故、人間はこのような邪悪な感情をもつようになったでしょうか。それは心のそこに隠されている競争意識によるものでしょう。「家の教会」は皆が“神の家族”になる共同体です。競争する相手ではなく互いの弱さを慰め合い、助け合う家族なのです。この地にある天国の模型が「牧場」であります。

NO 45(2020年2月16日)

 

 

 

【この世の中で最も怖い人とは

 

 この世の中で最も恐ろしい者はどういう人でしょうか。それは沢山の本を読んだ人ではありません。学びによって知れば知る程、自分の足りなさを自覚するので謙遜になります。一冊の本も読んだ事が無かった人でもありません。その人も自分が知らない事を自覚しているので謙遜です。この世の中で最も恐ろしい人はたった1冊の本だけを読んだ人です。その人は自分の乏しい知識でこの世の全ての事を判断しようとします。それを心理学用語ではDunning–Kruger効果と言います。知識的に乏しい人が信念を持つ事はとても危険な事であります。特に聖書の御ことばを知らないでこの世の価値観による信念を持つことは言うまでもなく危険です。私たちは聖書による神様の御教えを知らなければなりません。家の教会の三つの軸の一つである「道コース」の学びは聖書の知識を学ぶ事です。聖書の知識は全能なる神様と罪人である私を正しく知る為の最も必要な知識であります。聖書を熱心に読み学びましょう。

NO 44(2020年2月9日)

 

 

 

【禁じられた食品

 

 武漢で発生した新型コロナ肺炎によって感染者が全世界に広がり、死亡者が相次いで出ています。今回の新型ウイルスは空を飛ぶ唯一な哺乳類の蝙蝠によって人間に感染されたと伝えられています。聖書では蝙蝠は食べてはならない忌むべき動物として厳しく制限していました(レビ11:19、申14:18)。それは成人男性だけで60万人を超えるイスラエル共同体を特定伝染病と食中毒、ウイルスから守るために聖別された神様の御旨でした。その厳しい律法によって3,600年間イスラエル民族は独特な民族性(違う言葉で言うと「聖別」)を保つことが出来ました。律法の呪いによって厳しく制限されていた規程はイエス・キリストの十字架の贖いによって自由となりました。しかし、旧約聖書に食べてはならないと禁じられたものは現代社会に生きる我々の身体にも健康な食材ではないことを考えると律法によるその教訓は未だに効いているでしょう。

NO 43(2020年2月2日)

 

 

 

【説教

 

 説教とは神様の御ことばである聖書を解き明かすことです。説教は二つの役割があります。「宣布」の役割と、「説得」の役割がそれです。神様の御ことばは聴衆の状態、環境と関係なく有りのまま宣布されます。宣布の役割は神様の御旨と厳しい命令をありのまま伝えることが大事です。それに対して説得の役割とは聴衆が御ことばを理解できるように時代、国、年齢層などに合わせて伝えることに心をかけることです。只今宣布される御ことばを聴衆がきちんと聞いて納得して応えるようにすることです。説教は多くの聴衆を相手にして宣布するから個人的な質問を受け入れることはできませんが、礼拝後は疑問をいくらでも訊いていいと思います。疑問を抱くことは聖霊の働きでもありますが疑問を解消しないと不満と誤解の種となります。それを防ぐ為にも常に聖書を読むように努力しましょう。聖書は神様からのラブレターなのです。

NO 42(2020年1月26日)

 

 

 

【火山噴火と信仰

 

 12日フィリピン首都マニラ近郊のタール火山が噴火しました。私と何の関係もないはずの海外の天災地変が今回は違いました。何故ならば、13日月曜日の朝に長男の燦から“日本に帰れない”との連絡が入ったからでした。友達とフィリピンへ旅行する話は聞いていたのですが、まさか日曜日の礼拝を休んで旅に出たことは知りませんでした。息子は結局13日飛行機便の欠航で日本に戻れず、一日ずっとニノイアキノ空港で不安と焦りを経験しました。私は燦に“何故、よりによって日曜日にフィリピンの火山が噴火したのか分かるのか、悟りなさい。お前を悟らせる為の神様の御業なのだ。礼拝を休んで旅行なんて、神様から祝福されると思っていたのか。今後、神様の祝福を期待するなら悔い改めなさい!”の厳しいメッセージを送りました(自分勝手な理解かも知れませんが、日常生活の中で神様の導きを感じて信じることこそが信仰でしょう)。息子からは“うん、わかった。”と納得の返事が戻って来ました。息子は今回の出来事を通して何かを学んだでしょうか。

NO 41(2020年1月19日)

 

 

 

【赦し・和解・回復

 

 ある牧師の文の中で悟りが与えられました。私たちは私たちが頻繁に使う言葉の意味を解らずに用いる時がしばしばあります。「赦し」、「和解」、「回復」の意味もそうですが、ちょっと考えてみましょう。「赦し」は私たちが必ずしなければならない神様の命令です。赦しは他人の罪と過ちのせいで自分の人生を台無しにさせない為に教える神様のお勧めです。主は加害者の態度と関係なく私たちに赦すように命じられました。主の祈りでも”我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく”と教えています。つまり赦すことは私が救われる条件でもあります。それに対して「和解」とは赦しを受け入れて跪(ひざまず)く加害者の態度を通してなされるものです。だから自分の罪と過ちを認めない加害者との和解は出来ないものです。神様との和解も神様の赦しを受ける為に謙遜に跪く態度が必要です。謙遜な態度によって和解が成立するからです。また「回復」は和解によって始まります。回復は赦しと和解を乗り越え加害者と被害者のお互いが関係回復の為に絶えず努力することによって与えられるものです。だから回復は聖化の過程とも言えます。

NO 40(2020年1月12日)

 

 

 

【新しい歌を主に歌え

 

 私たちの館山教会が2020年の年間聖句として頂いた聖書箇所は詩篇98篇1節のみことばです。「新しい歌を主に歌え。主は奇しいみわざを行われた。主の右の御手 聖なる御腕が主に勝利をもたらしたのだ。」私たちはこの御ことばによって「新しい歌を主に歌う」新しい1年を迎えるように望んでいきましょう。そうすると主の奇しいみわざを体験したイスラエル民のように生きておられる神様を体験できるでしょう。「新しい歌」とは新しく作った歌ではありません。既に歌っていて口に慣れていた歌です。私たちが信仰を持って御ことばに従うことによって、私たちが変わると今まで歌っていた歌が「新しい歌」と変わります。そして今までは経験しなかった新しい世界が開かれます。イスラエル民が経験した奇跡の神様が私たちの中で現れます。新しい歌を主に歌う2020年となりましょう。

NO 39(2020年1月5日)

 

 

 

【ペルソナ

 

 心理学用語の「ペルソナ」という言葉があります。古代ギリシャの演劇で俳優が被った仮面を言う単語ですが、心理学者カール・グスタフ・ユングの理論に用いられました。彼は“人間は一千個のペルソナを持って状況に応じてペルソナを替えながら社会的な関係を持つ”と主張しました。人はペルソナの中で自己心理を社会的な要求に妥協しながら適応しているという意味です。この考え方は「本音」と「建前」によって社会的な責任を果たそうとする、そして自分を隠そうとする日本人と日本社会を洗い出しているかも知れません。しかし聖書によって生きる者はペルソナを被って生きる者でも、本音を隠して建前で生きる者でもありません。神は「あなたがたは聖なる者でなければならない。私が聖だからである」と語られました。聖なる者は真理によって表裏なく生きる者なのです。

NO 38(2019年12月29日)

 

 

 

【神様の愛が示された日、クリスマス

 

 私たちは神様から本当に愛されているのか。自分は愛されていないと寂しい思いをする時もあります。特に肉体的に疲れたり、精神的に大変な思いをする時によく感じたりもします。皆様は神様が世界で最も私を愛していることを感じていますか。私の為に独り子(イエス・キリスト)を与える程、私を愛してくださるお方が神様ですが本当にそうなのかを感じることは難しいです。しかし、世界の人々が全部いなくなり、私一人だけ生きていても神様は私の為にイエス様を送ってくださるお方です。そしてイエス様も私の為に喜んで苦しみに耐えながら十字架で死なれるはずです。大変な時にはその思いを牧場の家族と分かち合ってください。心を開いて何でも話せる所、それが牧場だからです。クリスマスは神様が私に対するその愛を示したことを記念する日です。キリストに感謝し主を喜びましょう。

NO 37(2019年12月22日)

 

 

 

【イエス様に対する思い

 

 日本人が最も尊敬する歴史人物の第1位が坂本龍馬であり、第2位は織田信長、第3位は杉原千畝だそうです。大尊敬する偉人であれば爪の垢を煎じて飲みたいものですが、私たちがイエス様に対する思いもそれと同じような思いでしょうか。私たちがイエス様に対する尊敬とありがたさが歴史人物に対する思いと似ているならば、私たちの信仰は大きな問題があるかも知れません。私たちがイエス様に対して持つべき思いとはその程度のレベルになってはなりません。罪深い私の為に十字架で死なれ贖ってくださったイエス様に対する思いは私たちのいのちさえ捧げても不十分な思い、私たちの人生の全てを尽くしても足りない思いでなければなりません。主の限りない愛によって私たちは呪いの状態から救われ自由を得たからです。そのような思いによって生きる信仰こそがキリストの恵みを悟って生きる信仰でしょう。

NO 36(2019年12月15日)

 

 

 

【苦難に対する態度

 

 先週末っ子恕燐のことで亀田病院に行って参りました。恕燐は脊髄側弯症と診断されて脊髄の曲がった角度は38度であり、現在の治療方法はコルセットを着用することで40度を超えると手術しなければならないと診断されました。癒しの為に祈って頂ければ幸いです。私たちは人生の中で様々な苦難に遭遇しますが、私と恵珍は恕燐の健康のことで“何故神様はこのような試練を与えてくださったのか”の様な考えは一切した事がありません。それは全ての苦難は理由があり、また理由が分からない苦難であっても私たちに必要であるから与えられたと信じているからです。苦難の時に正しい態度はその苦難によって主を深く求め、神様にもっと近づくように努力することです。そうすると、その苦難は祝福と変わります。何故ならば、神様は私たちに祝福を与えようとする方だからです。それを信じることが信仰です。

NO 35(2019年12月8日)

 

 

 

【聖なる演出

 

 私は聖書の御ことばが全て神様の御ことばであると固く信じています。そしてⅠペテロ2:9の御ことばが真理であると確信しています。だから礼拝前の奉仕者祈りの時にも牧師が祈ることよりも担当者が祈るように勧めているし、説教の時にも牧師ガウンを出来る限り着ない様に努力をしていて、洗礼式の時にも説教には着ないで洗礼直前に洗礼者に対する礼儀として着替えました。その理由は牧師ガウンによる「聖なる演出」を排除する為であります。牧師ガウンによって聖なる演出をすると説教の権威を高めることが出来ます。その有益を私は知っています。しかし、私は「聖徒は自分の信仰と聖書の御ことばの権威のみに従う訓練が必要である」と考えています。だから礼拝の中では人為的な権威の演出を排除する努力をしているのです。聖徒の成長と反応が遅く見えてもそれが正しい聖徒として成長する近道であると確信しています。

NO 34(2019年12月1日)

 

 

 

【霊的戦い

 

 韓国の新天地イエス教会が11月10日にシオン基督教宣教センター110期修了式を行いました。今回終了した人々は103,768名でした。今回の修了式は6,7カ月間の聖書教育課程を経た人々がその対象となり、まだその過程の人は20万人を超えるそうです。新天地イエス教会は通常「新天地」と呼ばれる基督教異端です。異端の成長は基督教の堕落と不可分の関係があります。既存の教会が霊的に世俗化したり堕落すると異端は猛威を振るいます。イスラエルの霊的な堕落が異邦の諸国の成長と深く関係あるように、日本の教会の弱さが日本の異教、基督教異端の大きな成長に寄与しています。全てが霊的な戦いです。館山教会の霊的な成長は日本を、そして館山を聖化させる尊い働きであることを覚え、聖書の学びに熱心に臨むべきであるでしょう。

NO 33(2019年11月24日)

 

 

 

【家の教会が定着された牧場は

 

 国際「家の教会使役院」院長であるイ・スグァン牧師は家の教会が定着されている牧場と教会は大きな特徴があると言います。その一つは牧場と教会に笑いが増えることです。何を語っても笑います。私を理解して受け入れてくれる仲間たち、自分を愛してくれる兄弟姉妹がいることで知らずのうちに心が開き、安心感が顔に現れるからです。二つ目は涙だと言います。救いの恵みが分かる人は罪人である自分が救われたことに感激して涙が増えます。他人と共感できる人に変わります。御ことばに恵まれると利己主義から利他主義に変わります。人の苦しみを理解し自分の苦しみのように感じます。そういう人は本当の幸せが分かる人です。聖書的な教会である「家の教会」は神様の恵みを知り共に笑い共に涙する愛の共同体です。

NO 32(2019年11月17日)

 

 

 

【愛の実践

 

 インドはカルワチャウト(Karwa Chauth)と呼ばれる他国にはない変わった日があるそうです。その日とは妻が旦那の為に一日間を何も食わず、飲まずにして“妻が旦那に愛を示す日”だそうです。文化は国と民族の独特な環境の中で造られたものとして良し悪しを判断する問題ではないと私は考えていますが、なかなか理解しにくい伝統ですね。妻が旦那への愛を立証する為に一日間を飢えるという考えがどうしても理解出来ません。しかし、人間は相手に何かをしてあげること、やってもらうことによって愛を感じることは確かにあります。神様もキリストを私たちの代わりに死なせたことによって私たちに愛を示されました。そして私たちはその神様の愛を頂いたのです。だからこそ私たちもお互いに愛の実践によって神の子であることを示す必要があります。

NO 31(2019年11月10日)

 

 

 

【牧会者カンファレンス

 

 韓国で10月29日-11月1日に行われた「第88回牧会者の為の家の教会カンファレンス」に参加して参りました。家の教会は初代教会のあり方に取り戻すことを目標とする働きであり、教会を聖書的な教会に建て替える革命と言える働きであります。全ての基準は聖書です。世界各地には既に5,000を超える牧場があります。今回のカンファレンスは世界から900名の牧会者が参加しました。世界各地で家の教会を建てている同労者の先生方に出会い各教会がどのように家の教会を建てているのかを伺うことが出来、とても有益な時間でした。結構ハードなスケジュールでしたが、これからも積極的に参加しながら家の教会のノウハウを学ばせて頂きたいと思います。牧師のレベルが教会のレベルですのでこれから自分のレベルをアップさせて主が喜ばれる館山教会となるように頑張って行きたいと思います。

NO 30(2019年11月3日)

 

 

 

【聖い浪費

 

 旧約時代には生贄として最上の牛や羊等を捧げていました。自分の罪の故に生贄を焼き尽くして神様に捧げることによって罪が赦されました。私はそれを「聖い浪費」と言います。いのちを救う神様のみことばを聖霊が時代の言葉に合わせて新しく替えてくださっています。館山教会は本日から新改訳聖書2017年版を通してみことばを頂くことを決めました。第3版の聖書がまだまだ新しいのに2017年版に替えることは「聖い浪費」です。聖書は一冊だけで一生見るものではありません。出来れば何年おきに替える程に毎日聖書を繰り返して読むことをお勧めします。聖書を簡単に安く手に入れることが出来るこの恵まれた時代にみことばを読まない事は、後に神様から問われる罪となるでしょう。聖書を沢山読み、神様を体験する信仰者となりましょう。

NO 29(2019年10月27日)

 

 

 

 

【新たな聖書で

 

 新改訳聖書が改正され2017年版が出版された時から私の個人的な悩みは始まりました。聖書を替えたい!けれど教会の備えて置いた聖書はまだまだ100年も使えるくらい綺麗な状態で第3版の聖書をわざわざ2017年版に替える必要があるのかに対して私自身が納得出来ませんでした。“まだ第2版の聖書を見ている方々も多いのに替えるのは勿体無い!”と思ったからでした。しかし、つい最近悟られました。聖書を改正することは専門家たちによって何年若しくは十何年も労苦するとても大変な作業であり聖霊の導きがなければとても出来ないことでした。いのちを救う神様の御ことばの聖書を折角聖霊が時代の言葉に合わせて新しく替えてくださったのに「勿体無い」という経済的な理由で替えない事は愚かな事であると悟られました。館山教会は役員会で決め、これから新しい聖書で新たな一歩を踏み出します。

NO 28(2019年10月20日)

 

 

 

【福音を宣べ伝えることは

 

 私は先週、松原湖研修会に参加しました。今年のテーマは「聖書信仰とこの時代」で、講師として務めてくださった方はTCUの恩師である岡村直樹先生でした。先生が語られた沢山の素晴らしい言葉の中でも私の心に深く響いた言葉がありました。その言葉は“福音とは人にモナカを突き付けることである。”という名言でした。真夏に長い行路を歩いた者にモナカを突き付けたら、世界で一番の美味しいモナカであっても嬉しいことではないはずです。その人には冷たいお茶の一杯が一番嬉しいものでしょう。いのちを救う素晴らしい福音を伝える時にも他人の状況を考えずにストレートで突き付けると無礼にしか感じられないかも知れません。他人の立場を考えながら聖霊に祈りつつ福音を伝えるべきであることを私自身は深く考えさせられました。主に感謝します。

NO 27(2019年10月13日)

 

 

 

【献金

 

 私たちは様々な名目で神様に献金を捧げていますがどの位捧げたらいいのかと加減に悩む時があります。献金をいくら捧げるのかはとても難しい問題です。何故ならば人々はそれぞれの収入が違うし、生活のレベルが違うからです。私は教会学校とか両親に献金に関してどの位捧げたらいいのかを教えて貰ったことが無かったので悩みでしたが、自分なりの原則を作ってからは献金するのが楽になりました。その原則とは毎週捧げる「主日献金」は高価な食事でなくてもいいので「神様に美味しい外食を奢ること」を想定してその金額分を主日献金として捧げています。「感謝献金」は神様に感謝する気持ちを込めて、月に1回感謝のプレゼントをすることを想定してその金額分を捧げています。その他「月定献金」は十分の一献金として、「会堂献金」、「宣教献金」、「指定献金」等はその必要に合わせて捧げいます。この原則を守ることによって収入と生活のレベルに合わせて献金を捧げることが出来ました。その思いは喜び感謝する心で自発的に捧げられる金額を自分なりに決めて捧げることです。皆様は如何ですか。

NO 26(2019年10月6日)

 

 

 

【傍観者の罪

 

 ジェノヴィーズシンドローム(傍観者症候群)という言葉があります。1964年3月13日、アメリカニューヨーク州に住むキャスリーン・ジェノヴィーズが帰宅途中で暴漢モースリーに殺害されました。彼女は大声で助けを求めたが、一部始終を見ていた近所の住人6人の傍観者たちは彼女が殺されるまで誰ひとり彼女を救おうとしませんでした。犯人は“発見者はすぐ窓を締めて寝るだろうと思ったし、その通りになった。”と陳述をしました。

 

 傍観者たちは自分は直接罪を犯してないから罪が無いと思いました。しかし、傍観者たちはこの世の法律によって罰せられないかも知れませんが、傍観の罪は犯罪を養成する効果を齎すことからその罪は犯罪人の罪に比べ決して軽くありません。罪に対して傍観していることは私たちに正義と公議を求める神様の望みとはかけ離れていることだからです。私たちはどんなことから傍観者になっているのか自分自身を見極めなければなりません。

NO 25(2019年9月29日)

 

 

 

【安息日の意味

 

 アメリカにChristianity Todayというキリスト教雑誌があります。毎年1年間の出版された基督教図書を審査して分野別に最高の本を選ぶそうです。

 

 2019年度の「霊性分野」で選定されたのはAJ Swobodaが著述した『Subversive Sabbth(転覆させる安息日)』という本でした。著者はその本を通して神様から与えられた十戒の内、第四の「安息日」に関する規定だけが守られて無いことを指摘しています。それは人間の欲による個人問題、家庭問題、社会問題、環境破壊問題が原因であると論じています。

 

 神様が六日間天地万物を創造し、七日目に休まれたことを通して人間に教えてくださった創造秩序が七日のリズムです。神様が定めたリズムに従うことこそが神様を認める姿勢でもあります。きちんと休むことが苦手な私も重く受け止めたいと思います。(崔ヨンギ師のコラムから一部抜粋)

NO 24(2019年9月22日)

 

 

 

【台風の被害

 

 9月8日に上陸した第15号台風は館山地域を直撃してしまい予想もしなかった大きな被害を齎しました。聖徒の家の屋根瓦が風によって飛ばされたり割れたりして雨漏りの被害を受けた家も5件もありました。教会も牧師館の入口のドアと柵の一部が倒れたり、アンテナが落ちたり、保育園の木が4本くらい倒れたり、藤棚も倒れてしまいました。

 

 人命被害が無かったことは何よりも感謝することです。停電と断水による大変な思いをされた方々が多かったことによって私たちの教会も今後、大きな災害を想定してミニ発電機を購入することと災害用のお水などを用意する必要性に気付いています。それは主から頂いた教訓でもありますので感謝です。皆さんの被害が一日でも早く復旧されますように切に願います。

NO 23(2019年9月15日)

 

 

 

【幸せな牧師

 

 最近読んだ本は韓国から持って来た「家の教会の開拓」に関する本でした。私はこの本を読みながらとても面白いことに気づきました。「家の教会」に取り組んでいる牧師たちの共通点は“私は幸せな牧師”と言っていることでした。

 

 どの国の牧師も頂いた使命の為に一生懸命に頑張っているはずですが、韓国の牧師は他国の牧師に比べ何倍も頑張っているように感じます。家の教会に取り組んでいる牧師も、典型的な教会に取り組んでいる牧師も同じく考えられないくらいハードな業務量を果たしています。

 

 私は典型的な教会の担任牧師からは“私は幸せな牧師である”と聞いた憶えはまだありません。しかし家の教会を牧会している牧師はよく自分を幸せな牧師と言います。「幸せな牧師」になること、それは私が求めている牧会の目標でもあります。何故ならば「幸せな牧師」のみこそ「幸せな聖徒」を産み出すことが可能であるからです。

NO 22(2019年9月8日)

 

 

 

【人生の優先順位

 

 私は2週間、宣教報告の為に韓国に行って参りました。韓国で会ったある女性執事から受けた恵みを皆さんと分かち合いたいと思います。

 

 去年、館山に短期宣教として来たことがあるカン・ソヨンさんは小顔、全身マッサージのスペシャリストとして、韓国のセレブの町である江南では10回受けて数十万円する高価マッサージショップを経営しています。ある日、3名の方が彼女から教習を希望しました。彼女は“通常100万円する教習費を私と日本短期宣教に行く事が出来れば、20万円にしてあげる。”と言ったそうです。3人は共に日本に来ることを決めたそうです。その中には未信者の方もいます。単純に計算して240万円の利益を彼女は「日本宣教」の為に諦めたのです。この世の価値であれば、少しでも自分に益を求めようとするのが人の常でしょう。しかし、彼女は消え失せるこの世の価値よりも神様が喜ばれる魂を救う宣教を選びました。そういう信仰者こそ本当のクリスチャンではないでしょうか。

NO 21(2019年9月1日)

 

 

 

【同床異夢

 

 同じ思いと、同じ心で協力する仲間がいることはとても嬉しいことであります。同床異夢の仲間であれば、いくら多くいても共に働くことは辛いだけでしょう。

 

 ある方が40歳を超えて献身して神学校に入りました。主の為に、宣教の為に命を掛ける思いで献身したその方は神学校に入って驚きました。神学生達が学内食堂のおかずがみすぼらしいことで学内デモを起こしたからでした。

 

 “自分は命を掛けて臨んだこの道なのに彼らは何を考えているのか?”

 

 と悲しくなってしまったそうです。未熟な私も日本宣教に命を掛けて臨んでいるつもりです。「家の教会」はキリストが血潮を流して与えられたものであり、館山教会が回復され聖書的な教会に取り戻す唯一な道だと信じて私は全てを掛けています。皆様は如何でしょうか?

NO 20(2019年8月25日)

 

 

 

【恐れ

 

 私は時々恐れを覚えます。

 自分の中で熱く燃える熱心が冷めるかと思うと。

 

 周りからの猜忌と妬みの目を意識して、

 自分が傍観者になるかと思うと恐ろしく感じます。

 

 人の評価にだけ耳を傾け、

 神様を忘れてしまう事が恐ろしいです。

 

 自分の全ての罪を全部悔い改める前に

 主に召されるかと思うと恐ろしいです。

 

 自分の牧会の方向が間違っているのではないか、

 自分の熱心が主の御旨に反してはいないかと思うと恐ろしいです。

 

 全ての働きに慣れて無感覚になってはいないか、

 また自分の判断に対して確信を持つようになる時には最も恐ろしく感じます。

 

 皆様、この未熟で弱い者の為にお祈りください。真に主が喜ばれる聖書的な教会を建て上げる館山教会となりますように心を合わせ一致して祈りましょう。コラムデオ。

NO 19(2019年8月18日)

 

 

 

【宣教は使命で

 

 この夏、韓国のJUM短期宣教チームが館山に来てくださいました。去年から「子どもサマーバイブルキャンプ」の働きの為に献身してくださっています。最近のように日韓の関係が良くなくて、経済制裁に至るまで大変な時期に彼らは何故お金と大事な休みを使ってこのような献身をして日本まで来てくれるでしょうか?神様の恵みを受けたからでしょうか?勿論主の恵みの故にこのような献身ができるわけですが、宣教は恵みだけで出来るものではありません。特にこのような時には恵みで宣教に臨むと長く続くことは出来ません。

 

 宣教は恩恵ではなく使命で臨むものです。使命を頂いた者は周りの環境と状況に拘ることなく、どんな苦難と逆境にも乗り越えて頂いた働きを全うするのです。それが使命を受けた者の生き方です。神様の前で(コラムデオ)。

NO 18(2019年8月11日)

 

 

 

【天に籍を持つ者は

 

 最近、日本と韓国の政治的な対立が激しくて経済制裁にまで広がって日本は嫌韓、韓国は反日の雰囲気が高まっています。この時にJEM仲間のある宣教師は牧会している教会の96歳会員から

 

 “今韓国と日本は厳しい緊張関係になっていますが気を悪くしないで韓国には帰らないで下さい。”

 

 と言われたそうです。宣教師はその一言で慰められ励まされて次のように返事しました。

 

 “強制送還されない限り帰ることはありません。” 

 

 私たちクリスチャンは天に籍を持つ天国の市民です。この世の国籍によって起こる政治的な問題で調子に乗って揉める事は主が喜ぶ事ではありません。歴史問題は「法を大事にする日本」と「理を大事にする韓国」との認識見解が違うことから簡単に一致する事は難しいです。しかし、長い間積んできた両国民の信頼による絆を思い巡らす事が解決の鍵となるかも知れません。

NO 17(2019年8月4日)

 

 

 

 

【尊敬する先生を送りながら

 

 先週の24日(水)東京キリスト教学園(TCU)にて行われた吉持章先生の葬儀に参列しました。吉持先生は名を知らない信徒がいない程、日本基督教界では有名な牧師でした。17歳で献身し80歳まで現役牧師として働き、牧会を通して242名を導き、48名の献身者を輩出なさいました。享年83歳。館山教会では5代目の牧師として2011年4月から2016年3月まで5年間牧会を務めて頂き、私に譲ってくださいました。

 

 私本人は先生の名声には頭が上がらず、全てに於いて(若さと、身長だけを除いて)は先生に敵うことが出来ないからこそ、赴任の初期から大胆に牧会に専念出来たと思います。何をしたって先生には及べないから未熟な自分を思いっきり丸出そうと思いました。お会いする度に“いつも祈っているよ”っと語られた先生の声が慕わしいです。

NO 16(2019年7月28日)

 

 

 

【最もの危機とは

 

 今日に生きる私たちクリスチャンの一番となる危機は何でしょうか。生活の豊かさ、偶像崇拝、高慢、愛がないこと、みことばに従わないこと等々を挙げられますが最も深刻な問題と言えば“神を畏れ(恐れ)ないことでしょう。

 

 いつも教会では「神は愛なり」の言葉は宣べられるものの「裁かれる神様」に対するメッセージは稀です。その理由は聴き手である聖徒たちが嫌がるからかも知れません。キリスト教が堕落したり弱まったりする時には審判なさる神様、義なる神様よりも愛なる神様、癒される・慰められる神様のイメージが強調されてきました。

 

 私たちクリスチャンは神様は私たちを愛してくださる方であることを覚えつつ、神様は裁かれる方・正義なる方であることを絶対忘れてはなりません。私たちの人生は精算される時が必ず来るからです。主の前で(コラムデオ)。

NO 15(2019年7月21日)

 

 

 

【日本:とても不親切な国!?】

 

 国際慈善団体であるイギリス慈善支援団体(CAF)が‘2018世界寄付指数’を発表しました。それは世界の専門家たちの協力による「寄付指数」、「人助け」、「寄付金額」、「奉仕時間」などの項目を数値化したものでした。その結果、日本は23%のスコアを記録し、144か国の中で142位となりました。カンボジアが144位(18%)、ラオスが143位(22%)でした。日本は人権蹂躙国家として悪名を宣伝されているパキスタン(104位・43%)、イエメン(126位、36%)は勿論、中国(135位31%)、インド(136位・31%)よりも不親切な国に分類されました。

 

 他人の苦しみと痛みに無関心な現代の日本社会の実状が明らかになった結果で、とても残念な思いでした。「隣人を自分のように愛しなさい」と語る聖書の御ことば、そしてキリストの愛こそがこのような日本を変える最終の希望であると再び悟られました。

NO 14(2019年7月14日)

 

 

 

共に生きることは】

 

  1.ある女性長老の方は果物を買う時に一番悪いのから選ぶそうです。いつも一番良い物から選ぶ私にとっては理解できない行動でした。彼女がそのようにやっている理由は“私が良い物だけを選んでしまうと悪い果物しか残らないので八百屋さんが困るから”とのことでした(私が付いていけないレベルです。泣)。

 

 2.毎週月曜日は燃えないゴミを出す日です。妻は一枚60円するゴミ袋の縁までゴミを入れながら、ゴミ袋の口を結ぶことが出来ない時には口をテープで閉めるまで押し込みます。ゴミ捨てる費用が勿体ないからです。今週もうちのゴミ当番である次男の健がゴミが重くて大変な思いをしながら捨てました。私は妻に“少ない生活費で大変だけど、私たちのゴミを回収する方が腰を傷めるかも知れないから。主の御名で共に生きる為に今度からは少し軽くして出しましょう。”と言いました。妻も“そうね。反省します”と言いながら直ぐ同意してくれました。主の御名によって共に生きることが御ことばの実践ではないでしょうか。

NO 13(2019年7月7日)

 

 

 

信仰は見える】

 

  わたしは「信仰は態度である」ことをみことばの中で悟り、館山教会の皆様にも耳に胼胝ができるくらい何度も繰り返して語りました。何故ならば、本当の信仰は神様と、人との関係の中で態度を通して現れているからです。

 

 例えば、とても有名で素晴らしい働きをなさっているある先生と私が会った時、その先生の小さい者に対する態度を見ると、その先生の信仰の状態が感じられます。無礼であればいくら偉い先生であっても信仰の者として信頼することは出来ません。信仰は実によって現れるからです(マタイ7:20)。自分の益にならない人、関わる必要が無い人、小さい人に現わす態度が私の信仰を反映しています。態度は人生を生きる方式です。大げさに「愛」と言わなくても真の信仰は正しい態度を通して全てが現れるものです。

 

 “信仰は人格として完成され、態度は人格が入る器である。” 

 -李京奭(イ・キョンソク)-

NO 12(2019年6月30日)

 

 

 

あなたは何故、生きていますか?】

 

  三十代で癌を患い、遂に天に召されたイ・カンフィ執事の闘病記ドキュメンタリー映画が最近韓国で話題になっているそうです。‘癌にかかった人がどうしてあのように平静な心を保つことが出来るだろうか?’と思い、映画を撮っていた監督が問いかけました。

 

 “あなたは何故、生き延びなければなりませんか?”

 

 その質問に対して彼は

 

 “今まで生きて来た人生が未熟で足りなかったので、たっだ一日でも真に忠実に生きたくて...”

 

 という返事をしました。彼の信仰の人生を見ていた未信者の映画スタッフたち(全員未信者)は心に深い感動を覚えたそうです。私は今その質問を自分にかけます。

 

 “あなたは何故、生き続けなければならないのか?”

 

 そして、彼が残した答えを思い出します。

 

 “神様が求める人生を生きる為に。”

 

 私はそのように生きたいと切に願います。

NO 11(2019年6月23日)

 

 

 

【どう反応するのかによって自分が分かる】

 

 私たちは物事にどのような反応をするのかによって私たちの真心が現れるものです。神様の御ことばに反応して泣いたり、悔い改めたり、喜んだり、新しい決断をしたりする人は神様を信じる者でしょう。

 

 神様の御ことばを聞いても何の反応を見せない人はこの世の全てのことが神様の御ことばによって成されることを信じない者です。お金に対して敏感に反応する者はこの世がお金によって回ることを信じて浮世の時流に従う者です。

 

 日々私は何に反応して生きているのかを神様の前で吟味して生きる必要があります。キリストの血潮によって救われた我々の命はもう自分のものではありません。人の話しに反応する際には自分の心の王座に主が座していることを感じながら語りましょう。未熟な私から頑張りたいと思います。

NO 10(2019年6月16日)

 

 

 

【信仰によって生きる人は】

 

 未信者家庭で生まれたソン・ヒョンボさんはクリスチャンになることで家族から反対され、兄からは鎌で殺されそうになるくらい激しい迫害を受けました。

 

 高校3年の時、神学校に合格したものの、学費がありませんでした。誰からも助けて貰わず、悲しくなり山に登りました。子どもの時、遊びに行ったことがあるお寺の住職に学費の悩みを語りました。 住職さんが学費をサポートしてくださり、お寺で住みながら神学校を卒業して牧師になりました。その時悟られた事は“福音を伝える思いだけでも神様はお坊さんでさえも用いて助けてくださる。”ことでした。

 

 後に不思議な出来事の全てを見ていた母も、姉もクリスチャンになり、激しく迫害した兄は牧師となりました。神に従う人はその信仰によって生きるのです。在主

NO 09(2019年6月9日)

 

 

 

【全てのことが共に働いて益となる】

 

 先週私が属している日本福音宣教会(JEM)東部支部定期集会が酒々井聖書キリスト教会の新会堂にてありました。牧師の趙先生が語る教会建築の経緯の証し。教会建築の為に5年間苦しみながら建築会社の巧妙な嘘によって何回も建築会社を変えなければならなかったことと最後に決まった建築会社も次々と35件の契約違反の中で神様の不思議な助けを経験したそうです。先生はその経験を通して、全てのことが共に働いて益となる恵み(ローマ書8:28)を体験しました。

 

 礼拝堂は本当に立派でした。その中である宣教師の証し。最初自分がクリスチャンになった時は兄弟9人の中で私一人だけだったが、今は6人がクリスチャンになっているとのこと。神の神殿(礼拝堂=聖徒のからだ)が建て上げられる恵みに満ちた一日でした。

NO 08(2019年6月2日)

 

 

 

【長男の一人立ち】

 

 長男の燦が今年卒業をして4月から社会人になりました。5月18日はお世話になったおばさんのところから新しく契約した自分の家に引っ越して本当の独立をしました。入社して4月の研修を終え、新しい部署に配属されました。そしてサラリーマンであれば誰もが待ちに待った給料日を迎えました。その前日に燦から電話がありました。初給料の全額を神様に献金したいということ。それは私たち夫婦がいつも実践している事でもあり、人生で初めてとなる初穂(キリストを意味する)を神様に捧げる聖書の教えに従う信仰の行動でした。親としてとても嬉しかったのです。

 

 自分も使いたいところが沢山あるでしょう。息子を考えると、いつも小さい信仰で心配していましたが、見事に成長したと感じました。‘いよいよ信仰も誠に独り立ちができたな〜’と思いました。

NO 07(2019年5月26日)

 

 

 

【宣教チームによる恵み】

 

 韓国の弟子教会短期宣教チームは8日間の働きを無事に終え、昨日韓国へ帰りました。今回の宣教チームは霊的な妨害がとても多くありました。

 

 彼らを迎えにいく高速道路でのアクシデント、チームの中で救われ半年しか経ってない一番弱い兄弟が急に熱を出して病院に行ったこと、またその兄弟に相次ぐサタンの攻撃などを受けて宣教チームは夜中まで悔い改め祈りながら一致になることが出来ました。

 

 このようなサタンの攻撃を受けながら悟られたことは、館山教会が聖書的な教会に変わることをとても恐れる者がいること、それに勝る聖霊様の助けと導き、祝福があることでした。私達が「家の教会」の働きによって主が喜ばれる素晴らしい共同体となることを期待しています。共に主の素晴らしい導きを喜び感謝しましょう。

NO 06(2019年5月19日)

 

 

 

【牧者たちの変化】

 

 私は韓国の詩人である金春秀(キム・チュンス)の「花」という詩が大好きです。その詩の一部の内容をご紹介すると次の通りです。

 

私が彼の名を呼ぶ前までは

彼はただ

一つのみぶりにすぎなかった。

 

私が彼の名を呼んであげると

彼は私に来て花となった。

 

私が彼の名を呼んであげたように

私のこの色彩と香りに相応しい

誰か私の名を呼んでください

 

彼に行って私も

彼の花になりたい

 

 この詩が思い浮かんだ理由は牧場の集いが始まってから先ず、牧者たちの変化が感じられたからです。牧者たちは今まではただの信徒として感じられていた方々が牧員になってからは「私の牧員」という「特別な存在」として認知されたと証しとしています。「一つのみぶりに過ぎなかった」信徒の方々が牧者の「花(=意味ある特別な存在)」と変わった訳です!これが「家の教会」の凄さではないかと思います。私たちは本当の「神の家族」となります。

NO 05(2019年5月12日)

 

 

 

【牧者カンファレンス参加の恵み】

 

 私と恵珍、そして大谷翠牧者、藤原真・ひさ子牧者、恕隣の6名は先週5月1日(水)-3日(金)に行われた家の教会の第3回「2019牧者カンファレンス」に参加しました。聖書的な教会を成す為に頑張っている11教会の牧者方々と牧師方々が集いました。

 

 参加されて感じたこと。家の教会の牧場で働いている牧者達は輝いていました。牧場の目的が「魂の救いと弟子作り」であることを常に考えて、主が喜ばれる牧場を作り上げるために献身している彼らの姿を見ると、本当に幸せそうに感じられました。同じくイエス・キリストを信じているクリスチャンであってもどのように生きるかによって私たちの人生は大きく変わります。やっぱり館山教会が歩む道は「家の教会」であることを再び深く感じられた集会でした。

NO 04(2019年5月5日)

 

 

 

セニオル・オブリージュ】

 

 前回では「ノブレス・オブリージュ」に関して語りました。「ノブレス・オブリージュ」とは「特権ある者が持つ社会的な責務」を言い、私たちクリスチャンは神様から選ばれ、救われた者としての責任があることを語りました。

 

 今回は「セニオル・オブリージュ」という言葉の意味を分かち合いたいと思います。「セニオル・オブリージュ」とは「年老いた者が持つ社会的な責務」を言います。館山教会は私たち自らも「高齢者教会」であると、よく言っています。それは聖徒の平均年齢が高いことを言いますが、霊的な意味から考えると、霊的に成熟された者とも言えるでしょう。霊的に成熟された者が「キリストが頭となる教会」を支えつつ、神様から頂いた愛を持ってこの世にキリストの福音を伝える宣教の使命を全うすることこそがそれではないかと思います。主の恵みを覚えつつ。

NO 03(2019年4月28日)

 

 

 

【イースターの恵み】

 

 この世に「死ぬ為に生まれた者」がいるでしょうか。全ての人々は死を迎えますが、ひとりも死ぬことを目的として生まれることはありません。しかし、イエス・キリストだけが死ぬことを目的として生まれたお方でした。

 

 イエスの名前が「救い主」という意味を持っていることから神様は生贄として捧げられることを目的としてイエス様をこの世に送られました。罪まみれの私たちを救う為に主はこの世に来られ、十字架につけられ死なれました。主の苦しみは私たちが受けなければならない苦しみであり、主の死は私達が受けるべき死でした。主は予言の通りに復活なさり私達の救いを完成しました。主イエス様が復活なさったことによって神様の御約束が成就されました。その記念の日がイースターです。

 

 主を賛美します。ハレルヤ!

NO 02(2019年4月21日)

 

 

 

ノブレス・オブリージュ】

 

 「ノブレス・オブリージュ」という言葉があります。フランスで社会的な特権を持っている者たちが国に危機が迫れた時に、国を守るために誰よりも危険な戦地に行って戦い、戦死した伝統によって作られた言葉です。それは「特権ある者が持つ社会的な責務」を意味する言葉でしょう。

 

 私たちクリスチャンは創造主の神様によって特別に選ばれ、イエス・キリストを信じる恵みに預かって救われた者として、私たちこそがこの世の中で誰よりも大きな特権を持っている者です。そのクリスチャンとしての「ノブレス・オブリージュ」とは何なのかを熟考する必要があると思います。

 

 館山教会に新たに始まった「牧場の集い」の中で共にクリスチャンとしての「ノブレス・オブリージュ」を見つける私たちとなることを切に願います。

NO 01(2019年4月14日)